御簾の向こうから穏やかに、しかし有無を言わせぬ呼び声がして、彼はひえっと肩を竦ませた。齢の割に大人びた少年である彼には、珍しい仕草である。ひらりひらりと錦の綾の縁取りから、白い手のひらが蝶のように手招く。彼はその細かい簾越しに、手のひらの主に向かって急いでるんだと目配せをしようとしたが、その網目の細かいためか、それともまったく主に彼の意見を聞く気がないのか、相変わらず手のひらがひらひらと招いた。彼はふうと溜息をついて少し肩を落とすと、目ざとく 「湛増、」 と咎めるような声が飛んできて、やっぱり彼は肩を竦ませる。
「ヒノエって呼べって言ってるだろ?」
「どうして。湛増は湛増でしょう。」
 おっとりと、しかし決して折れることはないのだろうと思わせるその言い草に、彼はやれやれと首を横に振る。御簾の下から毀れる一重の重ね色は、表淡青に裏は黄をした苗色。その上に、長く明るい紅の髪が散らばっている様子は、なんとも美しかったけれど、自らと同じ色のその髪色を彼は見なれていて、だからあまりなにも思わなかった。
「あのなあ、」
 さっと御簾を緑の溢れかえる庭に向かって開くと、橙の目玉をくりくりとさせて、娘が彼を見据えて座っていた。
「まあ、姫君の御簾を勝手に開けるだなんて、なんて不作法なのかしら。」
「従姉姫の御簾だからいいんだよ。」
「よくないわ!その垣根の向こうに高貴な殿方がいたらどうするの?惚れられちゃう!」
「馬鹿だな。熊野の山中にいるもんか。」
「そう言って若紫は浚われたんだから!それに見目麗しい若き貴公子ならまだいいわ!どうするのよ!あの法皇様だったりした日には私入水するわ!」
 物語の読み過ぎだよ、と軽く皮肉ぶって彼がそう言うと、じろりとするどい眼差しと一緒に扇子が飛んできた。これが結構、地味に痛いのである。痛いと言いながら手で扇子を押しやると、すっかり拗ねた形になった口元をそれで隠されてしまった。涼やかな眉が寄っているのをみて、眉を寄せたいのはこっちなんだけどな、と思いながらも言えないのは、幼いころからこの従姉姫に勝てた試しがないからだ。藤原の家系は得てして女性が強い性質がある。

「…それで?」
 不精無精、といった様子で発された言葉に、なあに、と扇の下から声が返った。
 それにますます困ったと眉を八の字にして、彼は御簾を下ろすとその場に腰を下ろす。明るい緑の光が遮られて、しずかに開けた密室ができあがる。
が呼びとめたんだろ。」
 そうだったかしら、ときょとりと首を傾げられて、噫まったくこれだからなあと彼はもう一度盛大に溜息をついた。
「そうだ。」
「そう…そうだったわね、ねえ湛増はその格好だし、今から京へゆくのでしょう?」
 確かに彼は、"ヒノエ"の格好をして今まさに京へと発とうとしていたところだった。だから見つかりたくなくて足音忍ばせていたというのに、まったく目ざとく声をかけられたので、思わず肩も跳ねあがろうというものだ。
「ねえ湛増、」
「だめだ。」
「…まだ何も言っていないのに。」
「つれてはいかないし行けないの。何度も言ってるだろ?遊びじゃないんだから。」
 だから見つかりたくないんだ、とあきれたように発された言葉に、「馬鹿にして!」 とやっぱりすねたような響きが返った。まったく何回、この問答を繰り返せばこの従姉姫は学習してくれるのかしら。
「だってずうっとここにいるの、つまらないわ。」
「あのなあ、は一応この熊野神社の巫ぎなんだから。」
「…湛増だって別当じゃないの!」
「俺は、頭領も兼ねてるだろ!」
 わいわいとまったく騒々しいこと。これがかの熊野権現をお祀りする二人なのだというのだからおそろしい。二人で子供のように喚きあっていると、それを聞き咎めた女房たちの、廊下をわたってくる音がした。
「ひいさま!ヒノエ様もいい加減になさってくださいまし!」
「お二人とももう立派に成人の儀も済んで、お役目もいただいているというのにまあ!」
 おっと、と肩をすくませて、ひらりとヒノエは御簾から躍り出た。「お待ちなさい!湛増!」 声だけが追いかけてくるが、当の本人は御簾から出てこないことくらい知っている。出てきたところで、一重というやつは重いのだ。それを何枚も重ねている相手に、身軽な彼を捕まえられるわけもない。

「湛増!」
 ずいぶんはっきりと聞こえた声に、彼が振り返ると、が御簾から半分体を乗り出して、拳をあげていた。
 ちっともこわくない。
 緑の光に晒された従姉を眺めて、彼はくすりと笑う。そぉんな細い、腕と首してさ。そんなに優しい、おんなのひとの形してさ。どうしたってこわいもんか。屈託なく笑い出した彼に、が怒りながら何か言っている。聞こえない、と子供らしく耳をふさいで、彼はからからと笑った。そのまま塀の上に飛び上がる。森の木々の向こうに海が見えた。そうなるともう、足がうずうずとして仕方ない。
 塀の上でもう一度振り返ると、廊下に立ったが、頬を膨らませて彼を睨んでいた。
 隣で女房たちがあきれ顔だ。
 まったくその茂みに貴公子がいたら、びっくりして裸足で逃げ出すぜ?
 言ってやろうと思い、けれど言うのを止める。彼女にはそれくらいが、ちょうどよいではないか。留守の間も安心だろう?ん?なにがって。あんたにぶいな。

「土産買ってきてやるから怒るなよ!」

 顔いっぱい笑った後で、ヒノエはヒラと風のように塀の向こうへ飛び降りた。
 たったいま越えてきた塀の向こうから、高価な品が口ぐち叫ばれるのを背中に聞きながら、彼はやっぱり聞こえない、と耳を塞いで、海へ続く道を駆け下りた。


しんりょくのかもめ

(20111004)