思えばどうして、それは随分幼い頃からだ。ヒノエはどうにも彼女が苦手だった。 七つも年が上のその従姉姫は、どうして男に生まれなかったかと父親が少しばかり嘆くくらいに漢詩を良く読み、解し、書いた。文治省にでも勤めれば、さぞや有能で立派な役人になっただろう。小さな時分から、いつもピシリと背筋を伸ばしている清かな人で、声様は物静かな少年のようだった。彼の一族に特有の炎色をした長い髪は緋色がかって暗い。はきはきと物を言い、相手の目を見て話した。年少の従弟妹たちの勉強の面倒だけではなく、年長の相手までこなした。凜と涼やかな紅の袴姿ばかりが印象的で、男女だなどと勉強で敵わない従兄たちにからかわれもしていたが、時折こっそりと和歌の代筆を頼まれるくらいには、情緒も解す人だった。 彼は勉強部屋に座っているのは苦手だったし、その人のまっすぐな目にまっすぐ見下ろされるのも落ち着かなかった。彼女の手がちゃんとやわらかいこともその腕が細いことも知っていたけれど、その居心地悪く持て余すばかりの感覚は、彼にはどうにもできなかったのである。 苦手だった。 どうしてじっとしていられないのかと叱られて、思わず嫌いだと口の中でもごもごと、しかし面と向かって言うくらいには。風邪をひいたとき、苦い薬を飲むのを嫌がってさんざん暴れて皆が手を焼いた、その時しれっと彼のあごを引っ掴んで無理やり見事な手際で薬を飲ませた彼女に、指差して大嫌いだと泣き喚くくらいには。 それは人当たりの良く、女性に対しては殊更にその気が強い子どもであった彼には常にないことで、だからそのことは、もちろん彼の一族、本人すらを含むみんなみんなに知れわたっていることだった。 気に入らない。気に入らない。自分より齢が七つも上なのも、時分より勉強ができるのも、ツンと澄ましているところも、間違ったことを言わないところも、大人相手にも物怖じしないで話すところも、こっちのこと鼻の垂れたガキだとしか思ってないのが見え見えなのもぜんぶ。 年月を経て、もう少年と間違われることなくうつくしく成長した彼女は、しかし根本的にまるで変っちゃいなかった。いっそ女官にするかと苦笑しながらも結構本気だった父親の予想を裏切って、熊野詣に京を下ってきたちょっとばかり高貴な若者に見初められ、とんとん拍子に話は進んで、なんと京へ上ると言う。 そんなの聞いてない、というのが、その目出度い報せを聞いた彼の心の第一声だった。 聞いてない。 |
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断りの一言もなしに年頃の娘の部屋に飛び込んできた子供に、なんだなんだと呆れて彼女は目を丸くした。その第一声がお嫁にいっちゃいやだという一言だったことには、さらに呆れて息を吐いた。 「お前私が大嫌いじゃなかったのかい。」 うんと童の時から繰り返したことを、見事に記憶されている。 「…嫌いだ。」 ぜつぼう、したように彼は譫言を口にする。 「大嫌いだよ。だからどこにも行っちゃいやだ。」 子供が縋るように、実際しがみつきながら、そう言って、しかし彼女は呆れている。七つも年が下の、この従弟の、分かり易いことったらない。昔むかしから変わらない。だからそこのことは、もちろん彼以外、彼女本人を含めて、彼の一族みんなみんなが知っていた。 「なんだいそれ。」 知っていたことを感じさせるような、からかうような笑い方だった。眉をしかめて仕方がないなと言い、彼女はヒノエの背中に腕を回し返してぎゅっとした。 そうして次の日、彼女は宣言通りお嫁に行ってしまったのである。 それから。 それからだ。 ヒノエは言うのだ。 「大嫌い、なんてもし姫君に言って―――、」 真っ赤な髪を弄びながら苦々しい顔。何とも恥ずかしい、過去最大と呼んでなんら遜色ない失態の話。 「それでも残ってくれるなんて思うなよ。」 でも今でも彼女からは手紙がくる。 なんとも人を食ったみたいな、あの性格そのままの、ニヤリという笑みが見えるような文字で。 『別当殿』 ああ失態どころか、汚点だ汚点。そう顔面を覆って喚き出したいような気分がしながら、けれども文は開いてしまう。素っ気ない紙の選び方なんて、本人そのものだと思う。夫となった若君は、これのどこがよかったのだろうなんて、心の中でも彼は嘯く。 『まだそなたの天邪鬼は治りませぬか。』 未だに彼が引きずっているのを知っていながら、しれっとなんにも気にしちゃいないに違いない。 「いーい薬だったよ、あんた。」 |