その報せが彼の耳に届いたのは、まだ夜も明けぬ、明け方と言うにも早い時刻のことだった。
 寝所の外の廊下に、人の気配を感じて彼はふと目を覚ました。
 もともと眠りの、深い性質ではない。それに加えて神経質で警戒心の強い性格は、常に彼の精神を張詰めさせ、緊張を保っている。
 誰何の声に古くからの臣下の声が返る。非常識な時間のおとないを詫びる旨の謝罪を途中で切り捨てるように一言、よい、とだけ返して、彼は上体を起き上がらせる。さらに立ち上がろうとした主人の気配を察してか、格子越しに 「あいや、ままに。」 と断りの声が飛ぶ。火急の要件、国に関わる事態ではないようだとその静けさから判断して、彼は少しばかり乱れた髪を、額から後ろへ大きな手のひらで掻き上げる。
「何用だ。」
 少しばかり憮然とした声音は常のこと。
 それに臆するようすもなく、ただ何事かためらうような沈黙があった。
「――――明朝お耳に入れたほうがよいかとも思いましたが、早い方が良いとも思いましたので…、」
 歯切れの悪い返答に、彼の機嫌が下降したのに気付いたろうか。彼が口を開くよりも前に、家臣は早口に言葉を重ねる。

の姫君がお隠れになりました。」

 まだ夜も明けぬ、兎の刻だ。寝所の周りはしんと静かで、しかしその言葉が、よりその静寂を深めたようだった。一瞬世界は無音になる。格子の向こうで未だに膝をついて臣下の構えを取っているだろう男の存在が、彼から遥かに遠ざかり、ともすれば自分すらも、どこか遠くへ吸い込まれそうな―――けれども彼は、顔色ひとつ変えなかった。
「いつ、」
 ほとんど意識せずに発された彼自身の声が、その奇妙な感覚を吹き払う。
「つい今し方。殿が早馬を出されました。」
 一人娘の死に、まだ真夜中と呼んで差支えない時間に馬を出した父親の気持ちはいかばかりのものであろう。
 そうか、と無感動に呟いて、彼は一度、布団に目を落とした。
 なにか乗っているような気がしたがなにもない。
 顔を俯けた拍子に、長い黒い髪が、彼の頬を滑った。それから再び顔を上げると、常と変わらぬ不機嫌そうな無表情で、彼は御簾と格子越しに、臣下の方へ目をやる。ぼんやりと薄暗く、その影は青い闇夜に浮かんでいる。
「下がってよい。」
「―――は。殿へはどのように。」
「万事良きように計らえ。」
「は。」
 おざなりにしてもぼんやりとしか見えやしないのに、臣下はしっかりと畏まって礼をし、退出の辞を述べて去っていく。
 すぐにその物静かな足音は遠ざかり、再び寝所は静まり返る。虫の声ひとつ聞こえない。季節はやがて春、京よりも一拍も二拍も遅れて、この地にようやくあたたかい日が訪れようとしていた。夜闇の中にも、来る日向に向かってうごめきだす生命の気配が、そこ、ここにするはずの夜だ。しかしやはり、あたりは耳が痛くなるほどに静かだった。知らず小さく空咳をして、彼はゆっくりと横になった。
 もともと浅い眠りの波は、すっかり遠のいていた。
 の姫が身罷った。
 その事実は、なぜだろう、ちっとも彼には響かない。けれども妙に、目が冴えた。なんとも思わない、思われないはずなのに、針でも飲んだように肺と肺の間辺りが痛んだ。
 天井を見つめることに何故か耐えられず、彼はゴロリと、体の向きを変える。
 視線の先には、どこまでも続くような夜が転がっている。
 その暗闇のずっと深いところに目を凝らすように、彼は目を見開いていた。
 昔、昔まだ彼に兄があった頃だ、彼の背が今の半分もない、まだこんなにも暗い影を背負う前の頃の話だ。今となってはももとせも離れたような気のする、遠い昔だ。幼い自分と、異母兄と源氏の御曹司、それから幼かったの姫。まだ男女の区別なく、もつれるように転げまわる年頃の四人。今になっては忌々しいような思い出ばかりの昔だ。まだ幼名で呼び合っていた頃。あの娘の名はなんと言ったろう。
 しばらく暗闇を見つめ続けて、という響きが、遠い彼方から蘇ってくる。
 、そう、たしかと呼んでいた。
 うっすらと懐かしく、しかしそれ以上に遠く隔たったその名―――かつてその名にどれほどの意味があったと言うのだろう。何故だかそれが、突然に美しい名であったように思われてくる。しかしそれだけだ、そこに何があったろう。
 彼には思い出すことができなかった。
 ただその名を失ったことのみが彼の心臓に重くのしかかった。段々と夜明けに近づく真っ青な薄闇の中、目だけを彼はじっと見開いている。幼少の砌に遊んだ娘だ。それきりの縁であったが、涙のひとつくらい流すか、少しばかり感傷に浸って然るべきだ。なのにどうにも、なんとも思われない。ただどうしてか、目玉は乾いて、ただただ胸が重たくつかえる。
 じっと暗闇を睨むように見つめ続けていると、なにか、何かがそこに蟠っているように見えてくる。はっきりとした形を持たない、もやもやと重たく、暗闇よりも暗いそれ。それと同じものが、自分の喉のあたりに詰まっているから重いのだというような気がする。それは一体なんという名だろう。
 深く、深く思考の海に沈もうとする度に、胸の重さがそれを遮った。彼の意識は浅いところをうろうろと行き来し、大した考えも浮かばないくせに眼ばかりが冴えて乾く。
 彼はもう一度、ゴロリと体の向きを変えた。
 いつの間にかすっかり暗闇は濃度を薄めて、格子の向こうでは早起きの鳥が鳴きだした。うっすらと青い光が、寝所の中にまで差し込んでくる。
 深く、重い溜息を吐いて、彼は眉間のあたりに溜まった鉛をどこかへ押し出そうと強く目を瞑る。
 形のないなにかの正体は未だ知れず、ただ、小さくなって彼の咽喉奥に居座っている。
 もうどうやら、眠れそうにないことだけは彼にもはっきりとわかった。


(20120430~)