珍しく昼の日中に転寝をした。 昨夜はの姫が身罷ったとかで起こされて以来、すっかり目が冴えってしまったためだろうか。しかし普段から眠りの浅い彼は、自ずから進んで眠らない夜もある。それでも昼間に、睡魔に絡め取られるようなことは今までに一度とてなかった。しかしいつの間にか、紙に筆を滑らせるうちに、その机に突っ伏してうとうとと眠ってしまった。 そうして夢を見た。 昔の夢だ。 桜が咲いていた。 見渡す限りに、一面の春。 佐保姫が花の籠をうっかりひっくり返したような桜の景色で、どうだ見事なものであろうと父が誇らしげに大きなその腕で桜の咲き乱れる景色を指し示した。すごいすごいとはしゃぐ異母兄と牛若、それからの隣で、彼は黙って立っていた。すごいと思わぬわけがない。まだ両手で数えられる回数しか春を知らぬ子供であるが、それでもその景色は毎年のものである。だからと言って見慣れる、ということはなく、やはり、雪深い地にあって春の訪れは何物にも代えがたい喜びであり、幾度巡り来てもこころの落ち着くことがないものだ。彼は目の前に広がる春の景色に、吸い込まれていきそうにすら思った。ただ元来表情に乏しい彼の顔は、その桜への感嘆、賞賛を表すことはなく、心の奥だけにしまわれた彼の言葉は誰にも聞かれることはない。 ―――せっかく大殿御自ら子供らのためにこうして遠出されたというのに母太郎殿のお顔ときたら。 誰が発したとはわからぬ、ヒヤリと刃を差し込むような冷たい響きの囁きが、ふいに彼の耳に届いた。無邪気に花のすごさをほめたたえている異母兄にも、その素直な賛辞にうんうんと頷いている父にも、その囁きは聞こえなかったようだ。少し俯いて、唇を噛んだ彼の前をひらひらとのどかな様子で蝶がいっぴき飛んでいった。急にあたたかな春の日差しが、彼を裏切って温度を下げたような気がした。 少し風が吹けば、ヒラヒラと花びらが舞う。噫惜しいことと声を上げる人々の輪は固まって移動し、その輪から段々に、俯いたままの彼が遠ざかる。 「音に聞く吉野の桜にも劣るまいて!」 豪快な父の笑い声が、最後の慰めのように彼の耳を打つ。 物語と歌集の中にいくつも讃えられていた吉野の桜、それと並べて遜色ないと父の言う花のうつくしさときたら、幾ら歌詠みに、勉学にと精を出す彼にも讃える言葉が見つからない。 父に同意を求められて、京から旅してきたのだと言う男が、ほんに、と彼らと違う響きの言葉でおっとりと桜を称える様も、どうだと同じように問われてはきはきとそれに答える牛若の賛辞も、何とも言えず誇らしい。なのにどうして、こんなにみじめな気持ちがするのだろう。 彼からすれば子供っぽいほどにはしゃいで見せる異母兄も、大人に交じって得意がるわけでもなく京の話をする牛若も、その輪の中で楽しげに笑っているも、すべて自分から遠いものに感じられた。 異母兄なんて嫌いだ、牛若なんて嫌いだ、なんて。 そこまで思ったところで、その考えを遮るように、楽しげな笑い声がどっと起こって、ますます彼は惨めな気分になる。 噫こんなにも、明るく楽しい春なのに。 顔を上げて、見上げれば一面花の色だ。 それに子供らしからぬ表情がふっとほぐれ、彼の口端に笑みが浮かぶ。なんとうつくしい花だろう、春の訪れの、なんとうれしいことだろう。こんな美しい景色、きっと世界のどこにも存在しまい。 真っ白な花の中に、目が吸い込まれてゆく。惨めだった気持ちが、慰められるようだった。 ふと気が付くと、父たちの一行が見当たらない。はっとして耳を済ますも、笑い声すら聞こえない。 おいていかれたのだ。 彼の心に、先ほどの惨めさよりもっと冷たい、絶望に似た気分が襲った。 おいていかれた。誰も彼が、いないことに気が付かなかったのだろうか。それとも気づいていて、おいて行かれた? 目の前が一気に暗くなる。 唇を噛む。 それは彼の癖だった。みっともないからよしなさいと母に幾度も注意された彼のくせ。正室でありながら、いつもカリカリと神経を尖らせていた母、それもこれもすべてお前の――――耳の中に蘇りそうになった甲高い声に耳を塞いで、ぱっと彼はしゃがみこんだ。だいじょうぶだ、耳に蓋をしたから、何も聞こえない。 聞こえない。 きこえない。 念じるように蹲っていると、「小太郎様!」 聞こえないはずなのに声がした。彼をそう呼ぶ人間は、この世に一人しかいない。どちらも太郎だなんて呼びにくいし、男なのに母太郎なんておかしいから、先に生まれた方を大太郎、次に生まれた方を小太郎と呼べばよいでしょうと言ってのけた娘だ。 弾かれるように耳から手を放して立ち上がると、が駆けてくるところだった。 「ああよかった、」 見つけた、と胸をなでおろして、がわらう。 「さがしました。今もみなでさがしています。」 そう言ってが耳に手を添える通りに耳を澄ますと、なるほど、大人たちに交じって兄の、牛若の、彼を呼ぶ声がする。 おいていかれたわけではなかったのだと、幼い彼の胸がすっと軽くなる。 「もどりましょう。」 差し出された手を取ることは躊躇われて、彼はただ眉間にしわを寄せてゆっくりと頷く。 「あんまりさくら、きれいだから、みとれて足もとまってしまいます。」 「…ああ。」 「平泉のさくらは、京のさくらよりきれいだと、牛若様もいっていました。」 ああ、ともう一度頷きながら、先ほど差し出された手を取っていればよかったと彼は少し考える。どうしてそんなこと、唐突に思ったかはわからない。おおいと一際、父の大きな声。たっと前を駆けだしたについて、気づけば彼も駈け出していた。二人の駆ける道を、桜の花が遮る。その花の海をかき分けて、二人は呼ぶ声の方へ走った。けれどの走るのはずいぶん早くて、じきに彼の、息が切れる。このままでははぐれてしまう。待ってと声も出せないし、その余裕があってもきっと彼はそうは言わなかったろう。ただ遠ざかりそうな背中を、また噛みそうになる唇で目を見開いて見つめるだけだ。 ふいに花のなか、が振り返る。 はやく、とその手が伸ばされて、彼は思わずその手をとった。 夢から醒めた。 うつ伏した彼の目の前に、桜の花びらがいちまい乗っていた。 |
(20120430~) |