泰衡という名に変わる前に、ほとんどの姫とは遊ばなくなった。もともと源氏の御曹司を館で世話することになったので、彼女の母が世話役として招かれたのについてきただけに過ぎなかった姫子は、牛若が平泉を去るのと時を同じくして自らの館へ帰っていった。彼の家に比べれば小さなものだった上に、ほとんど彼の家の家臣同然であったが、それでもの家はそれなりの領地と臣下とを持っていたのである。
 遊び相手が一気に二人減って、屋敷はずいぶん静かに、広くなったようだった。
 そのころからだったろうか。異母兄との不和がだんだんと顕著になったのは―――。

 そこまで考えて、彼は髪を掻き上げる。
 うたた寝だなどとなんと悠長な。紙の上にのったままの花びらを横目で見、怪訝に眉を潜める。春は近い、とはいえまだ桜など、どこにも咲いていないのだ。
「…夢から顕れたとでも?」
 小さく呟いて、その発想の馬鹿馬鹿しさに冷笑する。
 けれどもやはりどこか、捨てるには惜しい。優しい白は、確かにもうすぐ平泉の山々を埋め尽くす花の色、している。風の悪戯か、それともなにか違う花だろうか。
 じっと見下ろしていると、ぎし、と背中で床が鳴った。
 誰か来たろうかと思っておもむろに彼は振り返り、そうして一瞬呼吸を忘れる。
 何か思う前に、反射で立ち上がった。

「泰衡様、」
 白い花と同じ色の顔、目玉が優しく弧を描いている。
「ああよかった、」
 一歩、彼の方へ近づきながら、ほっそりとした白い指先を胸に当てて、女が安心したように息を吐く。その手のひらの下にも桜の花がある。一面に花をちりばめた文様の装束。京の姫君にも劣らぬだろうか―――?見たこともない都のことがふとよぎる。
「探しました。」
 言葉と同時に部屋中に、ぶわ、と桜が溢れかえった。
 花は見る間に部屋を埋め尽くし、彼の視界をすべて覆ってしまう。女の姿も見えなくなり、ただ声だけが、「 」 聞こえない。
 このままでははぐれてしまう。
 彼は女の名前を呼ぼうと思い、それを知らないことに愕然とする。幼い頃の、守り名しかしらない。その真実の、まことの名を知らない。
 しかし、彼は知っている。
 あれは、あの女は――――。
 一面の花の中から、美しい手のひらだけが彼に向かって伸ばされた。反射的にそれを取ろうとした彼をからかうように、手のひらは逃げる。
「待て!」
 ひらひら、と蝶のように、二度、左右に振られた手のひら。

!!!」

 そこはいつもの、彼が書き物をする部屋だった。
 花も、女も、なにもない。
 しんとしている。
 呆然として、彼はその場に腰を落とした。ふと見た机の上に、あのひとひらのはなびらはない。
 ―――の姫君がお隠れになりました。
 いまだ呆然としている彼の意識が、しかしだんだんとはっきりしてくる。
 ああそういえば、の死を報せに来たのは、誰だったろうか。古い家臣だと思ったが、それが誰であったのか思い出せないことに、彼はふと気づいた。夜も明ける前に、彼の寝所の外に来たのは誰だった?
「――――誰か!」
 何か考えるよりも早く、彼は廊下に顔を出した。すぐさま常よりも険しい声を聞きつけて、まだ若い側仕えが駆けてくる。
「どうかされましたか。」
「…なにか、変わりはないか。」
「は―――特に、ないかと思いますが…?」
 鋭い声で呼ばれたにも関わらず、思ったよりもはっきりとしない若主の問いかけに側仕えは首を傾げる。それになにか苛立ちに似た焦りを覚えて、彼はもっとほかの者を呼ぼうと口を開きかけた、ところであわただしく廊下を走る音がする。
「おお、泰衡様、やはりこちらにおられましたか。」
 ようございました、と古参の男が礼をする。
 胸騒ぎがする。
「どうした。」
「は。先ほど早馬が来まして―――の姫君がお隠れになりました。」
 無表情でそれを聞きながら、彼は昨夜、寝所を訪れた者が今目の前にいる男の兄であると思い至る。もう世を去って三年にはなる。
「…いつだ。」
 勝手に自らの口が動くのを、彼はどこか遠くで感じている。
「今朝早いうちとのことです。殿へはどういたしましょう?」
 そこまで尋ねて、男も側仕えもぎょっとして思わず目を見開いた。
 めったに笑顔など見せぬ彼らの若主人が、声を上げて笑い出したのだ。それもどうやら楽しげではない、どこかゾッとするような響きの笑い方だった。それは陽気さとは対極のところにある響きをしていた。最初彼らは主が泣きだしたのだと思い、すぐに笑っているのだと気づいて一瞬、主が狂ってしまったかと思った。
 やすひらさま?と尋ねる言葉も、口の中で霧散してしまう。
 どこか常軌を逸したような笑い声は低く、二人は顔を見合わせる。
 いったいどれくらいのあいだ、彼は哂っていただろう。ほんの一瞬のようでもあったし、ずっとながいことであったようでもある。
「…泰衡様?」
 ようやっと恐る恐る、声を発した男に、彼は最後に一度低く咽喉を鳴らして、それからゆっくりと常の無表情に戻った。
 まるで先ほどまで笑っていたのは自分たちの見た白昼夢だったのではないかと見つめる二人に思わせるほど、彼はもはや常の彼だった。
 どこか不機嫌そうな無表情。何を考え、何を見ているのか、誰にも悟らせることはない。いつも潜められているように思える眉、怜悧な眼差し、どこか皮肉げに歪んだ口元。
 美しい名、そうだ、確かに美しい名だった。
 ひとりでそう思い返してみて、すべてなにもかもみな一切合財が手遅れであることを思う。何を思っても見つけても、名付けても、それはすべて詮無きこと。
 それはもはやとこしえに、彼の前から失われた―――。

「万事良きように計らえ。」

 心の奥だけにしまわれた彼の言葉は誰にも聞かれることはない。



(20120430~)