薄闇が満ちた森を進む鬼に「たれぞ」と問う声があった。
神経質なかんじのする細い声は、高くふるえ、しかし地の底から響くように唸る。
視界を辺りにめぐらせて、鬼の男は小天狗の指差したずいぶん先に、もつれた闇の塊を見つけた。
暗い峰に生る松の木の影に、暗い色の塊がある。それは純度の高い影で、迫りくる夜闇とは違う、性質をしている。ぢりぢりと空気をはむように蠢く闇の中、女が胡乱な表情で鬼を睨みつける。目の周りは暗く、瞳ばかりが凶暴な光を放った。その目の冷たく、寂しいことは、まるで遠方(をち)に凍える月と星。寂しい死霊の目は蒼く、鬼のそれとは違う色。
「たれぞ。我が領地に足を踏み入れる者はたれぞ。我が眠り、妨げるのはたれぞ。」
細かく震える闇の塊は、人型をしている。夜の海に浮かぶように、女の顔が見え隠れする。痩せた頬、悲しい目。ぞっとするような美しさがある。噫これが、悲しい目か。彼はそう思い、声低く答えた。
「名はリズヴァーン。鬼と呼ぶものもいる。」
「おに?」
その言葉に、闇の塊は反応した。女の指先が、もつれた闇からのそりと這い出てきて、また、闇の中へしずんでゆく。先ほどからのぞく壮絶に美しい顔の中、女の口元は、少し嗤ったようだった。
「鬼というのは、我々のような、おぞましく浅ましい、凶悪な生き物のことを言うのだ。」
「…己でそれを言うのか。」
「真実を真実と告げて、何ぞ悪いことがあろう。」
「かなしくなろう。」
女の声に、鬼はただ、静かにそう言った。
「わたくしはかつて、美しかった!」
「そうだろう。お前の悲しみすら、美しかったろう。」
女の、怨霊の叫びに、男は静かにうなずいた。
「わたくしはかつて!」
「かなしかろう、お前の悲しみは、見ろ、もはやそんなにも、抱えきれぬほど大きく、暗く、重くなった。」
その言葉に、闇の塊は、なにか金属同士が擦れ合うような、高く、低く、耳障りな、悲鳴にも聞こえる音を上げた。鬼はその音にも、取り乱しもせず、耳を塞ぐこともなく、まるでなにも起こらなかったかのように、しんと立っている。
それに女は、歯ぎしりをして、闇と同化した濡羽玉の髪を掻き乱す。
「ああ…口惜しい。私の、"悲しい"。あんなにきれいだったのに。こんなに汚れてしまったわ。」
本当に悔しそうに、怨霊が呟く。確かに彼女の悲しみは、あんまり大きくなりすぎた。恨みと憎しみを吸い込んで、絡まり、もつれ、大きくなった。大きく大きくなりすぎた。おかげでご覧。こんなにも必死で、こんなにも汚れて、くたびれてしまって。
「かなしかろう。」
「悲しくなど。」
「さびしかろう。」
「何ぞ言う!我の!わたくしの何がお前のようなものに解せるというのだ!」
「解せぬ。」
間髪入れず男は言った。
「…ただ、哀れと思う。」
ぱちん、となにかがはじけるような、小さな小さな音がした。
おお、お、と呻きながら、小さく、小さくまるくなって怨霊は消えてゆく。
「…それでも、」
消えてゆく。ほつれは解け、小さく小さくなって消えてゆく。
その悲しい。それはそれだけ切実で、それだけ重く、黒くなった。
憎しみと恨みと辛さと孤独とが解けて、悲しいが残る。それもやがて、森の静寂と暗闇に解けて消えた。あとはしんと静まり返って、鬼の目玉だけ、青くなにか囁いている。女はもうどこにもいない。いない。いなくなった。最後の生のひとかけらまで、遠い旅路を下っている。
「それでもお前は美しい。」
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