「なんだお前、無事だったのか。」
 一刻もたたぬうちに、闇深い森の奥から帰ってきた男を認めて、小天狗は眼を丸くした。
「あの女を、どうしたのだ。」
 男はすたすたと大股に去ってゆく。追いかけて投げかけられた言葉に、ただひとこと。
「…どうもしない。」
 そのまま金の髪を少しなびかせて、去ってゆく。
 あとに残った小天狗は、シマリスときょとりと顔を見合わせる。
「どうもしないったってぇ、…。」
 そのまま視線を移した森の奥。もうすっかり、その先の暗いくらい闇の中に、悲しい塊はない。

***

 森の入口には、少女が立っていた。
 祈るように両手を胸の前で抱えて、男が現れたのを見るや、その顔を泣き出しそうに綻ばせた。
「鞍馬の天狗様!」
、…待っていたのか。」
 はい、と頷く少女の目は、少し濡れて、光っている。それには気付かないふりをして、男は高い背で、少女を見下ろした。彼と並ぶとたいがいの人間は小さいが、この少女はなおさらそれが勝る。黒い髪のてっぺんを見つめながら、男はなんとなく首をかしげた。
「北の方様は、」
 娘が祈るような、まなざしで男を見上げた。鬼とも天狗とも呼ばれる、男を見上げた。

「…もういない。」

 その表情を、なんといえばよかったろう。
 少女はやはり泣き出しそうな、しかし安堵したような、えもいわれぬ表情でわらった。おそらく心の底から微笑した。仏というのは、やはりこういう顔をするだろうか。よくわからないことを、男はどこか遠いところで考えた。
「ありがとう、ございます。」
 少女が深々と頭を下げた。裸足の足。冬は寒かろう。ぽたりとその足に、雨が降ったのを、やはり男は気付かなかったことにする。裸足の足。娘のこれからを考え、そして、やはりなにも考えなかったことにする。
「よかったのか。」
 それしかないとわかっていても、なぜか訊ねた。娘はちょっと目のはしをぬぐいながら、はい、と頷いた。
「御方様は、それでもには、おやさしい、主でした。ですから、あんな、」
 ちょっと言い淀み、少女はまた、胸をぐっと抑える。―――痛むのだろうか。男は無表情に考える。やはり痛むのだろう。そう結論付け、少し、身をかがめた。このほうが距離が近い、少女が見上げて、首を痛くすることはないだろう。
「あんな、」
「かなしくはなかろう。」
「え?」
「先刻私は、お前の主だったものに、かなしかろうと言った。」
「はい。」
「だがもうかなしくはなかろう。」
「…はい。」
 お前の悲しみが供養になるだろう。そうは言わず、なんとはなしに、その小さな頭をなでた。近い未来に来る、一人の稀有な少女のために、鍛え上げた少年にしたのと同じように。少し、胸が痛む。裸足の足。この少女は、主をなくし、これからいったいどうするのだろう。
 この時代、親も主もない娘の、行く末など知れている。
 これからどうする、とはしかし聞けなかった。娘もこれからどうする、とは言わない。聡い娘だった。心得ているのだ。それともすべて、もはや未練はないとでもいうだろうか。
「本当に、ありがとうございました。」
「――私はなにもしていない。お前の強い思いが、通じたのであろう。」
 そうだとよいのですが。少女が笑って、少しはにかんだ。
 花の笑み。もうすぐこの世界におとずれる、少女と同じ。
「…これからどうするつもりだ。」
 ついに男は訊ねていた。少女が驚いて目を丸くする。
「行く宛などないのだろう。」
 娘が何か言う前に、彼の口は珍しく早く動いた。
 どういうつもりだろう。
 小さな小娘に、情でもわいたのだろうか。それともただの、気まぐれだろうか。
 いいや、違う。
 どこかで男自身が囁く。
 大人も子供もみな死に絶え、美しいあの恩人とも離れ、ひとり。
 ひとりはさみしかろう、ひとりはかなしかろう。娘はひとりに耐えてきた。しかしその、目的も、達成されてしまった。あとに残るのは、噫残るのは?

「天狗は弟子をとることもある。」

 ひょうひょうと嘯いて、男が言った。少女は眼を丸くして、それから。
「よろしいのでしょうか。」
「天狗の修業は、長く、険しい。」
 泣き出しそうな顔で、少女が笑う。
「はい。」

 源氏の神子を助け、美しい天狗の弟子が、活躍するのは、まだ少し先の話。


20100621