ひどい戦だった。どちらが勝ったか負けたかも分からぬ、ひどいひどい戦だった。空が暗く濁り、雨が降った。焼け焦げて黒くなった大地と、その上に累々横たわる骸と。立っているものはごく僅かだった。折れた旗。白い旗、赤い旗。折れた槍、折れた剣、折れた角。どれもがみな悲惨だった。槍を杖に、足を引きずって兵が落ち延びてゆく。まだそこ、ここで、呻く声がし、死んでゆくものがあった。天に伸ばされた腕がそのままの形で硬直している。地平線のなんとも不気味なシルエット。あちらこちらで煙が燻っている。雨は弱く、じっとりと冷たい。
 その中を男が歩いていた。左腕に矢を受けてはいたが、深手ではないらしい。屍を踏み、足場の悪い中、ぶらぶらと歩いている。その目が無表情に、足元の顔を確認しているあたり散歩ではなさそうだ。立派な鎧帷子は血と泥とに汚れて、雨を吸ってずっしりと重かった。男の銀の髪が、水を含んで暗い色、している。しかし男の顔に焦りや怯えなどというものは見当たらず、本当に、ただ落し物を探しているようにうだうだと歩く。
 ひどい戦だった。少し疲れて、男が腰に手をやり、いったん息を吐いた。いないな、と呟かれた言葉には、なんだか仕方がないと呆れる年長者の気配が含まれている。頭を掻きながら、ぐるりと辺りを見回したときだ。男はやっと、お目当てを見つけた。屍が少し、山のように堆く積みあがっていて、その上に白い旗が真ん中でぽっきり折れて立っている。そしてその旗の傍らに、娘が座っていた。長い髪を解いていて、雨に塗れて背中に張り付いてしまっている。その帷子もだいぶん汚れていて、しかし怪我はないようだ。彼女はきれいな体育座りで、合戦の跡を眺めている。趣味がいいとは言えねえな、男が肩を竦めて呟き、歩を進める。まったく歩きづらいったらない。娘はまだ男に気づかないようだ。横顔が白く、冷えているのが遠目にもわかった。
「…さぞや名のある武将とお見受けする、我こそは平」
「知盛殿。」
 最後まで男が言う前に、娘が少し笑って振り返った。少し疲弊して、消耗しているようだが元気そうだ。男がゆっくりと笑い、よお、とのんびり告げた。
「探したぞ、。」
 それに申し訳ありません、とすまなそうに眉を寄せて娘が微苦笑し、男は構わないさと答えた。しばらく沈黙が落ち、彼女が立ち上がる気配はない。雨音だけが、遠い海鳴りのように聞こえている。鴉の羽音が、すぐ傍に聞こえた。
「なにを見ている?」
 見ていて気持ちのよいものじゃないだろう。そう言った男に、娘は苦笑した。
「確かにそうです。しかし私は、戦の後、こうしてこの焼けた野原を見つめていると、心が凪いでゆくのがわかるのです。冷えてゆくと言ったほうがいいのかしら。落ち着く、というのとは違います。先ほどまで燃えるように凶暴に荒ぶっていた分、その後の惨禍を見るとわたくしは――、」
 やさしくなれる気がいたします。と恥じ入るような小さな声音で娘が言った。男がそっと、ひそやかに首を傾げた。頷きともわからないとも取れる角度。娘が手にしたままの、刀を見る。すっかり刃こぼれして、血で黒くなっている。男の太刀も同じようなものなので、人のことは言えないが。
 再び沈黙が降りた。雨脚が強くなる。空気が灰色に煙って、まるで三途のほとりにでも立っているような気分。ならこの雨音は川のせせらぎか。男はその思い付きがおかしくて、すこしクッと喉を鳴らして笑う。舟番が今頃、死人を乗せるのにてんてこ舞いだろうな。なにせこれだけ、野原一面死人で溢れているのだから。それらを踏破した二人は、勝利に酔っているわけでも後悔しているわけでもなかった。ただ、静かに、凪いでいる。
「あ、」
 娘がふと声をあげた。小さな声だった。
「知盛殿、」
 あれを、と囁く娘が指差すところがよくわからなくて、男は彼女の隣まで屍の山を登る。隣に顔を並べて目を凝らすと、彼にも見えた。黒い焼け野原の上を、光が舞っている。青白い光はまんまるな球体をしていて、僅かに明滅しながら幾つも幾つもゆらゆらと空気中で揺れた。蛍にも似て、しかし決してそれではない。
 娘が隣で、声にならない溜め息を吐いた。
「…うつくしいな。」
 男が変わりに言葉を紡いで、娘が頷く。
 まったくなんだって世界の終わりときたらこんなにも美しい。魂魄が舞う。篝火は蛍火で狐火の灯火は送り火。あれは鬼火だ。あれは人魂だ。こんな悲惨なお終いなのに、あんなにきれいに、あんなにまぁるいおだやかな円を構成している。それらは寄ったり離れたりを繰り返しながら、少しずつ、森の方へ飛んでゆくのだった。あの中には、彼らの見知ったものたちも、混じっているのに違いなかった。ふらふらと覚束ない飛行で、しかし迷うことなく光はどこぞへと去ってゆく。
 まだ世界の終わっていないふたりは、少し手を繋いでそれらすべてが消えてしまうまで、じっと見つめていた。



(焼け野ヶ原)
20090301