「光彦さーんこんにちは!」
ガラリと戸を開けて挨拶もなしに入ってきた女性を浅見家の人々はなんの違和感も驚きもなく受け止めた。母親などは、あらいらっしゃい、だなんてのんびり微笑み出す始末で手に負えない、と彼女に名指しで挨拶された光彦は額に手をやった。まったく常識というものから浮いているのだ、彼の母と今入ってきた彼女は特に。
自分だって相当浮き世離れしているのをまったく棚に置いて、光彦は肩をすくめる。女性はのんびりと、彼の母とお手伝いのすみちゃんに挨拶をしている。
まったくここにいる人間はよいところ育ちのくせに常識と言うものがなっていない。浅見家唯一の常識、陽一郎兄さんがいない今僕がしっかりしないと、だなんてやっぱり地面から数センチ浮いた決意を胸に、光彦が口を開いた。
「ちゃん、入ってくるときはチャイムくらい押さないと。」
「あら、ごめんなさい!だってまた光彦さんが失恋したって聞いたものですからなぐさめて差し上げようと私夢中で!」
光彦の三センチほど論点のずれた突っ込みにまあと目を見開いて謝った彼女に、光彦はまたため息を吐く。
「……母さん?」
「ま、いいじゃないの、光彦。いつものことでしょ。それにちゃんと家の仲じゃないの。ねぇ?」
じっとりと光彦が見やった先の母親は、そんな息子の無言の抗議などどこ吹く風で、彼女、と声を合わせて少女のように、ねー、と微笑み合っている。
「しかし、「光彦さんももういい加減諦めて私と結婚してくださったらよいのに。」
「そ れ は !「そうよ?光彦。私もそれが安心だしいいと思うの、ちゃんなら大歓迎よって私昔っから言ってるじゃありませんか。」
似たような目で自分を見つめてくる女性ふたりにいささか気圧されながら、光彦はすこし左目を覆った。
「…ですから、お母さん。第一僕とちゃんでは年が離れ過ぎ「年下はお嫌いですか?…でも今回の失恋のお相手は光彦さんが大学生の頃まだ中学生だった方だとお聞きしたのですけど…。」
「そうなのよ、ちゃんとそんなに変わらないわよ。ねぇ?」
ねー、と再び二人が手を握り合ってかわいらしく微笑み合う。しかしいかんせん、どれだけ見た目がかわいらしくても光彦にとってはその会話の内容はまったく微笑ましいものではない。
昔から代々浅見家と付き合いのある家庭の娘であると光彦とは、年の離れた兄と妹のような、従兄妹のような関係であったはずだ。
しかし小さな頃、(例に漏れず光彦はきれいさっぱり記憶にないと言い張っているのだが。)彼自身が言った、ちゃんをお嫁さんにしてあげます、と言う言葉を、彼女はちゃんとずっと覚えていて、いつの頃からか、光彦お兄さまという呼び方が光彦さんになり、果てに光彦さんのお嫁さん宣言まで飛び出し、こうして時折家に来ては無邪気に結婚しましょうなどと言ってにこにこ微笑むようになった。
実際光彦だって彼女をかわいらしくは思っているのだが、なぜだろう、こそばゆくて面と向かってそんな風に幼いままの好意を向けられると彼はどうすればいいのかわからなくなってしまうのだ。
「いいえ!ちゃんは若いんですから、僕なんかよりよっぽど良い人が…」
「…光彦さんは私がお嫌いですか?」
「いや、だからそういうことではなく!」
「じゃあいいじゃありませんか。」
「いやだから!」
「そうだぞ光彦結婚すればいいじゃないか。いらっしゃいちゃん。」
「兄さんまで!」
いつの間に帰ってきたのだろう。いかめしい顔を崩して微笑みながら、長男の陽一郎が口を挟んだ。
年が離れているためか、彼は昔っからめっぽうに甘い。かく言うも、陽一郎兄さまには今でもとてもよく懐いているので、知らない人が見たら年の離れた兄弟か、下手をすれば仲のいい父娘に見えるだろう。
「お帰りなさい陽一郎兄さま!」「ああただいま。いいね、帰ってきてちゃんがいると。」だなんてにこにこ微笑みあっているふたりこそ、結婚でもすればいいのにだなんて、義姉に知られたら冗談じゃないだなんて少し怒られそうなことを考えながら、光彦は少し眉間にしわを寄せる。
やっぱり、それは、気に入らない。
「どうだ、光彦。そろそろ逃げ回るのは止めにしないか。」
「そうですよ、光彦。兄さんもそう言ってるじゃありませんか。」
「坊ちゃまおめでとうございます!」
「そんなすみちゃんまで!」
「ね?光彦さん!」
嬉しそうに無邪気に微笑んでくるに光彦はもうなんだかもう居たたまれなくなって、堪らず部屋の隅へ逃げ出した。
だってこの子ってば本当にわかっているのだろうか?結婚するって言うことは夫婦になるっていうことで、それがどういうことなのかほんとにわかっているのだろうか?幼いまんまのかわいい約束。おままごとの延長とは違うのだ。
なんだかそんなことを考えているのは自分だけのようなそんな少し後ろめたいような気持ちがする。
「ちょっとなんで逃げるんですか!」
「ちゃんが追っかけてくるからです!」
「光彦さんが逃げるからでしょう!」
「追っかけなかったら逃げません!」
「結婚してくださったら追っかけません!お好きに探偵でもなんでもなさってください!」
「いやちゃん僕の仕事はルポライターですから!」
「どっちでもいいでしょう!」
「よよよよくない!全然よくないです!母さん僕は探偵なんてしてませんから誤解しないでくださいね!!?」
「もー!なんで結婚してくださらないんですか!私が嫌いですか!」
「だから違いますってば!僕みたいなおじさんはちゃんにはふさわしくないです!」
「まだ光彦さんは若いです!それに私光彦さんならおじさんでもかまいません!」
「だーかーら!」
「なんでダメなんですか私は光彦さんが好きなんです!」
「あーー…!!!ああもう誰にでもそんなこと言ってるんじゃないでしょうね!」
「光彦さんだから言ってるんです!」
「だからまたそういうことをほいほいと!」
「今言わなきゃいつ言うんですか!」
「もっとムードを大事にしてください若い女の子なんだから!」
「おじさん一歩手前相手だからいいでしょうムードなんて!」
「あああいまおじさんって!」
「一歩手前です!」
ぎゃあぎゃあ言いながら机を挟んでぐるぐる追いかけまわる二人に、外野はめいめい微笑みながらため息を吐いた。毎度毎度この二人は鉢合わせるたびこれだもの。
「ただいま帰りました…ってあら、ちゃん。どうりでにぎやかなはずですね。」
「あっ!奥様、おかえりなさい。」
「あら、和子さん、おかえり。」
「おかえり。」
「まあ陽一郎さん今日はお早いんですね。」
「ああ。…まったく光彦も素直になればいいものの。」
「相変わらずですねえ。」
「本当に…一体誰に似たのかしら?」
「父さんじゃないですか?」
「あら、あの人はあれでいて意外と情熱的なのよ…ってそういう話じゃありません。光彦!もういい加減逃げるのはお止しなさい!」
「母さんは黙っててください!」
「…坊ちゃんはなんで逃げるんでしょうねぇ?」
「天邪鬼なんだよ、昔っから。」
「兄さん余計なこと言わないでください!」
「おや聞こえてた。」
「光彦さんもう逃げないでくださいよう!」
全員に追っかけられてついに光彦は庭に飛び出した。つっかけにひょいと足を突っ込むと広い庭の中ほどまであっという間に走ってゆく。ひとつしかないつっかけに、あー!と声を上げて残りは光彦を見送った。
「光彦さん!」
頬をばらの色にして口を尖らせるに、光彦はなんだか笑い出したくなるのを堪えて大きく言う。もう少しこのままでもいいじゃないか、彼は少しそう思う。本当に僕がおじさんになって、それでもあなたが僕を好きだと言ってくれるなら。
「探偵は追われると逃げたくなるものなんですよ!」
「それは泥棒でしょ!」
スリッパで庭に下りてきたに、ひゃあ!と声を上げて光彦は駆け出した。
「もう、ふたりともー?もうすぐ夕飯ですよー!」
背中から飛んできた母親の声になんだかひどく幼い時分に戻ったようなおかしな気分に笑いながら。
ねえ、あなたはまだおぼえてる?? 「ゆーびきーりげんまん!嘘吐いたら針千本のーます!」 20071107