怨嗟の叫びが聞こえます。妖精は思わず耳を塞ぎました、こんな悲痛な、醜い、凄まじい呪詛の言葉を聞いたことがありませんでした。この世のすべてを恨んで憎んで怨んで嫉んで呪う声でした。噫、どうしてそのように恐ろしい声に、どうして聞き覚えがあると思うのでしょう。
 彼女はずいぶん長いこと、仲間から預かった魔法の力を抱えて、世界を渡り歩きました。美しい彼女の容姿は、いつも殊更に人の目を惹き、大抵の場合彼女に禍を齎しましたが、それでも彼女はただひたすらに、己が子の身のみを案じて長い永い時間、世界を彷徨っていたのです。時には人と異なる存在として、恐ろしい黒衣の教会から牙を向けられることもありました。けれどもその度に、彼女の真心に心動かされた精霊や、時にはこの星自身が、彼女をその身の奥深くに匿ったり、姿を変えて逃がしてやったりしました。昇る太陽をつかもうとするかのように、ひたすらに彼女は東へ東へと向かいました。なぜかはわかりません。けれども妖精は運命を信じていましたから、必ず己のかわいいディルムッドに会えると信じていました。そうしてついにたどり着いた東の小島で、彼女はその恐ろしい獣の叫び声を耳にしました。
 血の匂い―――彼女たち妖精のもっとも恐れる血の穢れが満ちています。暗い夜―――月は赤く、煌々と血に濡れたように光を滴らせていました。恐ろしい夜、殺戮の夜だ―――。
 彼女は一度大きく身震いをしました。
 背なの羽を隠すためのローブを、風が何処かへ浚っていきました。
 怨嗟の声、呪いの声が、叫び続けています。何事かを強く強く―――罵っている。この世の理不尽さを、己の正当性を、己の悲劇を、恨み辛みすべて、なぜこのような目に合わねばならぬのか、憎い、憎い、なにもかもが、そうだ、いったいこの俺が何をしたというのだ!
 噫、この声は。
 妖精の真っ青な蒼穹の瞳から、雫が落ちました。
 いとしいこどもを探すと決めてから、流すことを止めた雫でした。
 妖精は彼を見ました。探し続けたたったひとりのこどもを。そうして彼女は、それがもうこどもではないことを理解しました。おぞましい言葉、狂おしい叫び、どれほどの悲哀と憎しみを、彼はその心に押し込めてきたのでしょう。幼い少年に心根もその顔貌もすべて、常に美しくあれと思い込ませたのはいったい誰だったでしょう。怨むこと憎しむことを醜いとそう禁じさせたのは誰だったでしょう。
 まっくらなかたまりに、なってしまった。
 涙のしずくが頬を伝いました。
 あいにきたわ、わたしたちの、いいや、わたくしの、わたしの、たったひとりの―――。
 妖精はすべてを理解しました。小さな氷の棘も、枯れぬ涙も、胸の痛みもすべてみな。もはやその怨嗟の塊である化け物も、恐ろしくはありません。それよりもっと恐ろしいことを、彼女は知ってしまいました。
 真っ白な裸足の足で、彼女は一歩踏み出します。ふわ、と周囲の空気が浄化されて、あわく銀色に輝きました。
 なぜだ、なぜ、俺はなにも悪くない悪いのはすべて女、あの一人の女、あの魔女、俺を脅して唆して貶めた、あの恐ろしい女―――!!!
 暗い影を背負った男が、不意に現れた妖精にぎょっと目を見開きます。
 妖精の長い髪は金色、風もないのに夜空に靡き、その頭を飾る花は月光の銀色をしていました。神話の女神のような真っ白なドレス―――美しいが奇妙な風体をした女は、その青空のような瞳からほろほろと涙をこぼし続けていました。その目は今まさにこの世界から強制的に退場させられんとしている不義の英雄だけをまっすぐに、ただまっすぐに見つめていました。
 この世のものではないような―――ふいに微かな怖気が男を襲いました。なにを恐れるものが彼にあるというのでしょう、それでも確かに、その男はその瞬間、妖精を恐れました。真っ白な背中から、透き通った羽が生じていました。

『…ディルムッド、』

 楽園の小鳥のような声が、男とは異なる異界の発音で不義の騎士を呼びました。
 ざあ、と風が吹きます。
 血の匂い。
 どこかへ運ばれてゆく。
 月が隠れました。
 騎士はまだ怨嗟の叫びを撒き散らしています。
 女が両の腕を羽ばたく鳥のように広げました。
 男ははっとして、銃身を構えます。
 透明にすきとおった、美しい女―――女はどこか恍惚とした表情で、腕を広げたまま、ますます透き通ります。
 その胸から、やわらかい光が幾つも羽ばたきました。
 タァン、という軽い音。
 騎士のいたところに黒ずんだ煤だけが残りました。その上にハラリと、翅の焼け焦げた美しい蝶が落ちます。
 男は初めて切り離しておいた心を元の場所に残して、美しいと無感動に思いました。
20111230