聖職者は真夜中に懺悔する。
「ね綺礼、あなたはいったい何を悩んでいるの?」
 静まり返った聖堂に、どこか冷たい少女の声。驚き、警戒すべきその声を、神父は不思議に受け入れていた。真っ青な暗闇だ。闇に潜んだアサシンが、危険を告げてくることはなく、しかし確かに目の前に、月明かりに照らされた少女が立っている。漆黒の長い髪。同じ色の瞳。黒々と広がる夜の海を彷彿とさせる、静かな存在感。ひたひたと夜汀の波のような。少女は司祭の着るような、真っ白なローブを纏っていた。初めて見る娘であるのに、彼はその娘にひどく見覚えがあるように思った。同時にこの場にその娘がいることに、ひとつも違和感を覚えない。
「あなたは幼い頃からずっと、いつも何かに迷っていたわね。今も、いつも、ずっとずっと。」
 何故知っているのかとは思わない。知っていて当然だ。
 そう思う理由は、彼にはわからない。ただこの少女は、確かに彼のことを、ずっと幼い頃から見て、知っているのに違いない。夜の闇は静かで、完全に気配を消しているのか、それとも本当にいないのか、暗殺者の存在を感じることはできない。
 やや長い沈黙の後で、男は静かに口を開いた。娘は静かに聴いている。
「―――私は人間として、欠陥しているのだ。」
 低く囁く、秘め事を明かすような声音に、なんだと娘は肩を竦めた。
「なぜそう思うの?」
 年長者のような声音。
「…私には生きる目的がない。喜びも悲しみも、なにもない。」
「それがどうかして?」
「それはおかしなことだ…異常な、許されざるべきことだ。」
 なぜ、ともう一度少女は呟く。
「生きる目的をはっきり持っている人間なんて少ないんではなくて?」
「…それだけではない。私はなにか、欠落している…。私は今まで、なにか喜びを、情熱を、何かに見出したことがない。誰かを愛したこともない…妻が死んだときですら、私はひとつも悲しくなかった!」
 ふうんと少女は男の隣に腰を下ろし、細い足をぷらんと揺らした。本当にとるにたらないことに、相槌を打つ様子だった。しかし彼は、その様に怒りすらわかない。今ここで、怒り、悲しみ、喜び、笑う、そういった人間"らしい"ふりをすることほど億劫で不要なことはなかった。
「私は人が美しいという物がわからない。」
「あら、では美しいってなに?」
 少女がことんと屈託なく首を傾げる。
「人が美しいというものは、ほんとうに、美しいのかしら?たとえそれが納得できなくても、誰か他人が、その他大勢が美しいと口を揃えれば、それが世界の真実なの?」
 隣に座った少女が、濡羽珠の瞳をじっと男に注ぐ。
「この世界に本当に、共通の認識としての"美"など存在するのかしら?万人がそれを見て、美しいと感じる、そんなものが本当に存在するのかしら?なぜ美醜の判断に個人差があってはいけないのかしら?なぜ他人が美しいと思う物を同じように美しいと感じなくてはならないのかしら?味覚に各人の好みがあるように、なぜ美醜の判断にも個人の差があってはならないのかしら?何故?世界に本当に、誰もが、この地球に暮らす幾憶万の人々のすべてが、美しいと感じるものなど存在するのかしら?たとえば昇る朝日に?―――地球が回り続ける限り永遠に繰り返される光景なのに?たとえば、夕泥む空に?―――ただ太陽の反射率が変わって青が赤に、橙に見えるだけの自然現象に?満点の星空に?―――今この星に生きる我々から遥かに離れたなんの関係もない星が発光しているだけのことに?白亜の街並みに?―――どこにでもある、人が暮らし雨風を凌ぐ為だけの住家に?幼子の笑顔に?―――どこにだって転がっているただのガキに?空にかかる虹に?―――光の屈折率が見せる一瞬の錯覚如きに?ねえ、美しいものってなんなの?誰がそれを決めるの?その他大勢の多数と、何故意見を合わせなくてはならないの?その他大勢と意見が合わないことが、その他大勢が美しいと言うものを美しいと感じられないことが、なぜ罪悪であると思うの?ねえ、うつくしいってなに?いったい誰がそれを定義できるの?誰かが、皆が、美しいと言うものを美しいと思えない、それってどういうことなの?」

「…それは罪悪だ。」

 たっぷりと黙ってから、男は呟いた。
 人の喜びを喜びとし、人の悲しみを悲しみとし―――。
 それが神に仕える人間として、人間になりきれない人間として、あるべき姿だと彼には思われた。どうして他人には当たり前にできることが、彼にはできない。理解できない。なぜわらう、なぜ悲しむ、なぜ愛する?自分には心がないのだろうかと疑ったこともある。しかしそれは、どうやら違うらしいのだ。
「喜びってなぁに?悲しみって?ねえ、私たちお互いまったくの他人よ。同じ国に生まれて同じ言葉を話し、よく似た姿をして、けれどねえ、私たち、本当の意味でわかりあえることなんて、本当にあると思う?他人を、自分を、誰かが寸分の狂いなく一から百まで、つぶさに理解できることなんて、起こりうると思う?感情の共有?共感?相互理解?馬鹿馬鹿しいったらありゃしない。一体誰が、私を理解できるの?一体誰が、あなたを理解するの?あなた以外の他に。ねえ、私たち、みんなひとりよ。」
 少女の小さく細い手が、無骨な男の手に重ねられる。母親のような仕草。
「あなたは誰かを理解したかったの?理解されたかったの?」
 そうなのだろうか。私は誰かを理解し、理解されたかった?
 考えたこともない疑問が、彼の中で首を擡げ、しかし霧散する。そうではない―――そうではない。
「私は、」
「ねえ、あなたが正常ではないと、どうして自分で決めつけるの。ねえ、一体誰が、その他大勢の正気を保障してくれるというの?誰があなたの狂気を証明するの?ねえ、本当に狂っているのはだぁれ?正常でないのは?」
 誰が私の正気を、狂気を、証明してくれる?
 少女がそっと自らの小さな胸を指した。お前が自らの正気を保証できないというのなら。一瞬男を絶望と言ってもいいような感覚が襲う。少女がなんなのか、彼はもうなんとなくわかっていた。夜に包まれた教会、静かに静まり返り、聖堂の像にま真っ青な月の光が落ちている。
「…私は美しいとも、悲しいとも、嬉しいとも感じたことがないのだ。」
「そう。まだあなたは、そう思うに足るものに出会っていないのだね。」
「それは異常だ。人として当然備わっているべき情緒が、私には欠けているのだ。」
「何故?あなたは悩んでいる。欠けていることに苦悩している。私にはあなたは酷く人間に見えるよ。ただ少し、他と趣向が異なるだけの。」
「あらゆることを、試してきた。しかし私は、まだ出会えない。」
「…本当に?」
 本当に?
 それは魔に似た囁きだ。神の寄る辺、迷える子羊を導き悪を祓うはずのこの清浄なる場が、発するには相応しくない問いかけだと、常人なら判断するのだろうか。彼にはもはや、なにもわからない。
「本当にあなたはあらゆることを試したのだろうか?この世のすべてを一人の人間が、短い一生のうちに味わい尽くすことなどできようか?まだ出会えていないだけだ。」
「だが私は、」
「もう疲れたかい?」
 疲れたのだろうか。
 彼の肉体は、精神は、おそらく人の数倍頑丈で屈強だった。彼はありとあらゆる苦難に、苦痛に、晒されてなお健常だった。どんな厳しい修業の中に身を置き、どんなに苦しい戦況の中に身を放り込んでなお、彼は死にすらしなかった。無感動にいつも、探している。生きる情熱、それを求める情熱は空虚で、彼にはとても、それが目的とは信じられない。目的を目的と成すなど、虚しいことだ。彼は人一倍の空虚を身に満たし、しかしそれを嫌悪した。
「保証が欲しいのかい?いつか出会える、そのちっぽけな希望に縋りついて、ここまできたのだね。君の言う"正常な"人間に紛れて、そのふりをして。退屈ではないかい。窮屈ではないかい。私なら耐えられないな。美しいとも思わないものを美しいと言い、楽しいとも思わないことに楽しいふりをして。ねえ、神父。君は忍耐と我慢の人だね。いささかストイックが過ぎる。」
 もう少し肩の力を抜いてお生きよ。
 少女が笑って腰を上げた。例えばあの金ぴかだとか―――。笑ってくるりと振り返る。今まで付き合ったことのないタイプと、話をしてみるのはどうだいと微笑する。

「どうして今まで避けて通ってきたものの中に、美があるとは思っても見ない?」

 避けてきたもの。信仰心、道を求め、神に仕え、正しきを愛し、慎ましやかに、規則正しく、理性に則り、常に人として、人間として、まったき道を―――。それを外れることは避けて通ってきたはずだった。しかし神の道を究めれば極めるほどに――――その脇に打ち捨てられたものばかり、彼の周りに残った。手にしたはずの正しさ、信仰、神はすべて、彼の手元に残らない。
「だがそれは―――、」
「万人の言う美とはかけ離れたところにあるものだから?」
 教会の少女はおかしそうに笑った。
「誰かが醜いというものを、美しいと感じるものがいる。誰かがくだらないと捨てるものを、面白いと拾うものもいる。感情の機敏も、美醜の感覚も、同じではないの?」
「…同じではない。それは悪だ。」
「悪でなぜいけない?」
 その問いに神父は顔を上げた。聖堂の少女に。
「お前がそれを言うのか?」
 ふ、ふ、と少女がわらう。白い法衣。黒い髪。
「音楽に聖書に十字架に神父様に医者に食糧に恋人にロックにドラッグに天使に悪魔、生と死、ジャック・ザ・リッパー、それからジーザスクライスト。何が人を救うかなんて、誰にも、何物にも、救われたその時以外わかりゃしない。」
 だからね、と振り返った少女の瞳は、やはり底のない黒。
「私は、私たちは、いつもどこにでもいるよ。風の中にも、花の中に、血の中に、愛の、憎しみの、美しさの、醜さのなかに。私は何者にもなれるし、この世の万物すべてでもあるよ。誰かが、たとえ世界の一人以外全員がそれに救いを見出さずとも、たったひとりがそれに希望を見出したならば、それは私だ。」
 神父は黙って頭を垂れた。
 そのうちわかるよ、残された少女の囁きだけ、教会の伽藍にうろんに響いていた。



20120222~