湿った風が隙間から吹き込んで空洞を鳴らした。この埋まらない空虚な隙間をどうすればいいんだろう。アルフォンスはその答えを知らなかった。どうしようもなく彼の宿る器は金属で、鎧だった。それを体と形容していいのか、彼は時々こっそりと迷う。
にゃあ、と一つ鳴いて抱えていた黒い猫は彼の腕を滑り降りていった。
「あ。」
そのまま振り向きもしないで、十字架の群れ群れの中へ去ってゆく。墓場の空気は酷く湿っていて、関節の部分がぎしぎしと鳴るような気がした。痛くなんてなるはずないのに、(ましてや寒いだなんて)アルフォンスは無意識に腕を擦った。少しでもあたたかくなるかしら、そんなこと考えたって、摩擦ですこおしあたたかくなったって、彼にはそれを感知する術はないというのに。
兄は随分帰ってこなかった。何をしているんだろう。
十字架のずっと奥を見やって、ああでも兄さんはあの人によく懐いていたもの、思い出して(ああでもその記憶を蓄積していたはずの僕の脳はどこへいったんだろう。不毛な考えは捨ててしまおう。アルフォンスは首を振る。)ちいさくわらった。
「ふふ、懐かしいな。」
まだ随分と幼かったけれど、よく覚えている。お姉さん。彼はその人の笑顔が好きだった。
彼女に水を運ぶのは彼の役目で、母親にお願いね、と頼まれるとアルフォンスはガラスのコップに注がれた冷たい水を、小さな手のひらで抱えてそおっと走った。ガラスの表面はうっすら汗を掻いていて、ああ早く持っていかなくちゃ、という思いと、こぼさないように、という思いとが幼い彼をとてももどかしい気持ちにさせたものだ。
「はい!」
ベッドに座っている彼女に、両手で掲げるように水を差し出すと、その人は、肩掛けを引き寄せながら腰をかがめて覗き込むようにアルフォンスを見た。やわらかそうな髪を耳にかけながら、その人はほほ笑む。
「ありがとう、アルフォンス。」
細められた目玉、優しい口端。その細くて白い指で頭をなでてもらうのがとても好きだった。まるで何か特別な飲み物を飲むように小さく喉を鳴らしていつもコップ一杯分を飲み乾すその人を、アルフォンスは小さな背丈で飽きもしないで眺めていた。
『お姉さんは病気なの、ね。…優しくしてあげてね。』
母親のその言葉がなくったってアルフォンスは彼女にうんと優しくしたに違いない。絵本を読んでくれる少し掠れた声も好きだったし、エドワードにはひみつね、とにっこり笑って飴をくれるところも好きだった(大抵すぐばれて兄さんは怒ってたっけ)。アルフォンスは優しいね、と言ってくれるところも、彼の拙い話を一生懸命聞いてくれるところも。アルフォンス、という丁寧なよびかたは、なんとなく小さな彼を大人になったような気分と、アルって呼んでほしいなあ、っていう子供っぽい不満とでくすぐったくさせた。
優しくてきれいで窓からの光に透けてしまいそうだったおねえさん。
ある日突然目覚めたら黒服を着なけりゃいけなくなって、なんでどうして、って酷く泣いて兄と母を困らせたのを覚えてる。思えばそれが、彼らの体験した始めての死だったのだ。
だからこそ、だ。彼らは知ってしまった。それがどういうものか。
二度と会えない。笑わない。
知ってしまった。その後に残される孤独を。
「僕らお姉さんのことが大好きだったんだよね。」
ああこれってもしかして初恋っていうのかな、ってすこしわくわくして笑ったら、向こうのほうで赤いコートが小さく揺れるのが見えたので、アルフォンスは立ち上がる。
ざわざわと鳴る梢の上を烏がたったの一羽で飛んでいって、それを見送ってなんとなくふいに家に帰りたくなった。
烏が鳴くから
200704501/