年の瀬の空気はどこの国もだいたい似ているように思う。
しんと冷たく静かでそのくせ底の方ではあったかな火が燃えてざわざわしている。忙しい静けさ、せわしない静寂。そんな感じだ。
「じゃあ今探して来ますんで、ここでお座りになって待っていて下さいね。」
「ああ。悪いな、年末に突然。」
いえいえ、とわずかな微笑と共に首を振って、日本が障子の向こうに去っていく。
静かな足音が遠ざかるのを感じながら、イギリスは正座を崩すとふうと息を吐いた。大掃除をしたと言っていたためだろうか、畳の匂いがぷんと充満している。この匂いは嫌いではない、なんだか落ち着く。そうかんがえながらイギリスはぐるりと古い部屋を見回した。
広い部屋は少し冷える。そう考えて、彼は赤々と燃える石油ストーブのそばによいしょ、と移動した。火に手をかざして一息つく。
と、ギクリとした。すぐ真後ろに子供が立っていたのだ。
いつか日本の家に遊びに来た折り、うるさく騒いでいたおかっぱ頭に赤い着物のチビ。相変わらず神出鬼没らしい。人なつこそうな笑みをにこにこ浮かべて、座ったままのイギリスを、ほっぺたをくっつけるようにして覗き込んでいる。
「おじちゃん、また来たのね?」
「またおまえか!おじちゃんは止めろ。」
ムスッと返したイギリスにもその子供はうれしそうに笑うばかりだ。
「おじちゃん、」
「だーかーら!「だめよ、ぼっこ。」
深くしんと響くような声がした。室内の陰影が、日がかげったわけでもないのにぐんと強くなった気がする。
「はあい。」
行儀良く返事をして子供がぱたぱたと駆けだした。
部屋の隅に女が立っている。
まるで綿毛のような、白い花をいくつも抱えた細い腕が重たそうだ。
その子供をそのまま大きくしたような、耳の下で切りそろえられた髪。伏せ目がちな瞼、睫の長い影。陶磁器の白い肌。渋い色合いの椿の着物。若そうなのに随分落ち着いて見える。
(…東洋人は年齢がわからない。)
目を眇めて女を眺めながら、内心イギリスは、少し舌打ちをする。日本と同じ若く見える年寄りだろうか?それとも?
「すみません、この子がご迷惑を。」
ほら謝りなさい、と細い手のひらが子供の頭に触れる。
「でもねおねぇちゃん、このおじちゃん、私たちのこと見えるのよ?」
子供が無邪気に女を見上げる。
「…そうね。」
と頷いた女の微笑はあまりに美しかった。
さあ、お外で遊んでらっしゃい。と女が子供の背を押すまでのごく短い間、イギリスはぼんやりと女を見つめていたことに気づかなかった。
「すみません落ち着きがなくて…もう300にもなるのにあの子ったら。」
「さん、びゃく。」
口端をひきつらせるイギリスに対して、正確には300と10です、とにっこりほほえむ女は、やはり人ではないらしい。
「君の名は?」
what's your nameと尋ねる言葉が少し悴んだ。女がほほえむ。
「です、イギリスさん。」
***
(…まただ。)
日本はなんとなくひくつく口端を堪えて歩を進める。向かう先の離れの部屋からは、イギリスの話す声。深刻そうに相槌を打ったり、楽しそうに笑ったり、声を張り上げたり。
イギリスさんて、やっぱり少し危ない方なんでしょうか?それともやっぱりエクソシストの国だからでしょうか?とややマニアックな知識も動員させて日本は首を傾げる。前に彼を招待した時もそんなことがあったっけ、と思い出して少しくたびれた笑みをこぼす。
(…がんばれ私。)
イギリスが借りに来たものさえ渡せば、後はなんとでもなるだろう。比較的まともな方だと思ってたんですけどねぇ、首を捻る動作はやはりいささか年寄りくさい。
「イギリスさん?」
「あ、」
日本、と振り返ったイギリスの顔に、日本はおや、と思った。なんだかとても、優しい顔、しているような気がしたのだ。
なにかを真剣に心配しているような、誠実な顔。最近の彼と言えばフランスと馬鹿騒ぎばかりで、そんなまともな顔ができることもつい忘れがちだ。
「言われていたのはこれでよろしかったですか?」
「ああ。…間違いない。すまないな、感謝する。」
いえ、と会釈した日本は、イギリスが自分を例の目でじっと見ているのに気がついた。
「…なにか?」
尋ねた拍子に日本の短い髪がさらりとこぼれる。とても細やかで絹糸のような。
イギリスは日本の前で、ええと、とその金の髪をがしがしと掻いてしっかりとあぐらをかきなおした。
「なあ…、日本。日本は覚えてねぇかな?その、…ってやつ。」
え?とイギリスの口から出たいかにも日本人のその名前に日本が首を傾げる。
。珍しくはない、どこかで聞いたような名だ。
「…さん、ですか。…さあ、聞いたことがあるような…」
何故だろう、何度かその名を呟くと、眠気にも似たゆるやかな心地が日本をつつむ。夢見るように首を傾げて、ほう、と息を吐いた日本に、イギリスはなおも必死な様子で続けた。
「なんでもいい、ちょっとでもいいんだ。覚えてないか?」
「イギリスさんのお知り合いですか?」
「いや、そうと言えばそうなんだが、そういうわけでもないような…?」
さっき知り合ったばっかだし、と頭を掻くイギリスの眉毛の間によった皺を見ながら、日本は首を傾げる。
「なんですかそれ?」
「あー、まあ俺のことはいいから!知らないか?覚えてないか?」
「…」
形のないものに目をこらすように日本が遠くに目をやった。そうっと細められた目玉と、白い頬のやわらかい産毛とが光の反射で白く、まるで日本の輪郭がうっすら光っているようにイギリスからは見えた。
「…ああ、」
ふとそう呟いて日本が顔をあげる。そのかんばせに花の咲くようにほころぶのはきっと彼の記憶だ。ふわりとその顔の上に優しい光が照るように見えた。
「そういえば…一体どうなってしまわれたんでしょう。」
「覚えてるか!」
イギリスが身を乗り出して叫ぶ。ええ、と白昼夢の余韻に浸るように、ぼんやりと宙を見つめて日本がかすかに頷いた。イギリスの背中で、誰かが息を詰める。
「。ええ、さんと言う方がおられました…ずっと、ずっと昔、もう随分前のことです。」
そのずっと昔、に思いを馳せるように日本がどこかを見る。
イギリスは叫びたくて仕方がなかった。もどかしかった。昔は今もここにあるのに!お前の!すぐ、前に!
「お懐かしいですねぇ。戦争のときの騒ぎ以来どうなってしまわれたのか…きっともうお亡くなりになったのだと思いますが…。」
なにせもう60年以上前の話ですからね。とひとりで納得すると日本がほほえむ。
(ああもうすっかり時の向こうに褪せてしまった。)
なんだか日本は、とても切ない心地になる。記憶もおぼろだ。ただただ懐かしくそして慕わしい。花びらをいくつも重ねるように優しかった過去の記憶。
その日本の微笑に、イギリスは何か、何か言わなくてはと思ったのになにも言えなかった。背中の女が、黙って首を振ったからかもしれない。その目が優しくほほえんで、涙ぐんでいたためかもしれない。
だからイギリスがしたのは、ただ「じゃあ、邪魔したな。」ともう一度礼を述べて立ち上がることだけだった。
日本はまだ寝ぼけたように、いえ、とやわらかく会釈した。
立ち上がって障子を開き、イギリスが一度振り返る。じゃあまた、と背中の彼女に言うつもりで。
(あ、)
でも目に映った景色にただ彼は一度息を詰めると、ほほえんでそっと障子を閉じた。
部屋の中には縁側からのやわらかい西日がいっぱいに射して白く光っていた。日本が西日に目を細めて姿勢をまっすぐに座っている。その前に女が、同じようにきちんと正座して透き通るように、いた。同じような微笑。やさしくてそしてうつくしい。
女の手にはこぼれ落ちそうな白い花々。
いつか渡せるでしょうか?
つい先ほど、女はそう尋ねた。
ああ日本さん覚えておいでですか?私のこと、他の者たちのこと。あなたがまだ我々と言葉を交わした時代のこと。ほんの少しでも。懐かしい、懐かしいですねぇ。慕わしい、私はとても慕わしい。
イギリスには日本の肩に優しく白い花びらが降り積むのが見える。その正面で、てのひらに光を包んでほほえむ人も見える。
「ああ。」
よかったな。イギリスは少しほほえむ。
いつかいつか君は思い出す。それまで待っているよ花を積んで、君に渡せるようにと。
「いつかきっと。」
帰ろう。ひとりぼっちの道。でもわかっている、家に帰れば彼らが待ってる。
廊下にあのチビの笑い声がこだました。
またね、またね、またね、またね、また…
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