00.序章 「おねえちゃん、だいじょうぶ?」 深い深い森の中で、幼い少女が若い娘を覗きこんでいる。大きなまぁるい目玉を、くりくりと動かして、少女は倒れていた娘を見下ろしていた。 「…だれ?」 少女の問いかけに質問を返して、娘がゆっくりゆっくりと起きあがる。 場所は暗く深い森の中である。空気の色は深い深い紺色で、鬱蒼と樹々が生い茂っている。月の明かりだけが青白く木漏れ日のように降り注いでいる。不思議そうに、心細げに辺りを見回す娘に、少女はぱっと明るく笑って見せた。 「こんなところに倒れてたら、こわあい妖怪に食べられちゃうよ?」 少女の言葉に、首を傾げながら娘が少しほほ笑む。 「おねえちゃん一人なの?おねえちゃん、かごめおねえちゃんのお友達?」 「え?」 橙と黄土の市松模様を着た少女である。笑うと八重歯がちらちらと覗く。それに対して娘の方は、ここいら一帯では見かけない服装をしていた。年頃の娘であるのに、足を膝の少し上あたりまで出している。細かい襞のついた変わった袴に、上着の形もずいぶんとかわっている。500年ほど経てば、その服装がその年頃の娘の着用する、制服、なるものであるというのは自明のことであるのだが、時が足りない。 しかし少女は、その服装によく似たものを着た、娘を知っていた。 「ちがうの?」 きょとりと首を傾げられ、娘も同じように首を傾げる。 いまだ状況が把握できていない。どうにも辺りの風景は彼女には見覚えがなく、さらには少女の服装にも馴染みがなかった。そんな様子の娘に興味をなくしたように、少女が立ち上がりかける。娘ははっと顔を青くして、待って、と少女の裾を掴んだ。 「なぁに?」 鈴の転がるような少女の声である。 「あの。あのね、」 娘の切羽詰まった表情に、再び少女が彼女に顔を戻す。 「…ここはどこなの?」 その言葉に、少女は人差し指を顎の下に当てた。 「ええっとね、河内の国だったと思うけど…りん、よくわからない。」 「河内の、国?」 「うん!」 あのねえ、私、りんって言うの。そう無邪気に笑う少女の言葉に頷きながら、娘の顔は月の光の下、ますます白くなってゆく。 「おねえちゃん、大丈夫?」 「え?…う、うん。だいじょうぶ、大丈夫だよ。」 少し安心させるように娘がほほ笑んで見せるが、やはり顔色が悪い。 「おねえちゃんの名前は?」 「私?」 どこか遠くで、梟が鳴いた。 「…。。」 「おねえちゃん。」 りんと名乗った少女は笑って、名字があるのねとにはよくわからないことを言った。 森は暗い。ひどく暗い。すべてが青暗く、水の中のように思える。森の中は静かなざわめきに満ちていて、真夜中であってもそこに生きる生物の濃い気配がする。こんな静けさを、娘は知らなかった。 少女に手をひかれて、娘は立ち上がる。着物についた土と落ち葉を払いながら、一度頭上の木々の隙間から空を見上げる。満天の星空。こぼれ落ちそうな量の星が、白く、青く、きらめいている。ほし、と思わずつぶやかれた囁きに、少女が首を傾げる。大きな月が、葉を透かして青く見えた。 眩暈がする。 あたたかい少女の手のひらを自らの手のひらに閉じ込めたまま、娘はそう思っていた。この手を離したら、まいごになる。そう思った。同時にこんな小さな子供を、こんな深い森の中、ひとりにしてはいけないとも思った。 ここはどこ、くちびるのうえにのった囁きは、音になりきらずにきえる。不安であるが故か、自分よりも幼い少女を前にしての義務感か、彼女にもわからない。 思い出したように、自分が倒れていたらしい土の上に、自らと同じように投げ出されていた鞄と細長い包みを持ち上げる。 「おねえちゃん、それ、刀?」 包みを見て、少女が尋ねる。その質問に心なし目を丸くしながらも、「竹刀だよ、」と彼女は答えた。 「シナイってどんなの?」 「竹で作ってあってね、刀の練習用…みたいなものかな。」 ふいに音が止み、ざわりと空気が泡立つのを彼女は感じた。 少女もそれを敏感に察したようで、はっとして振り返る。 「危ない!!」 少女を押しのけたのは、本当に咄嗟で、反射によるものだった。 彼女が最期に見たのは、真夜中に太陽のような力強さで―――しかしそれと同格に並べるには余りにも暗い輝きを放つ二つの光だった。 それが目玉だと気がついたのは右肩が抉れるような熱さを感じた時で、一拍遅れてそれが痛みだと気がついた。あまりの衝撃に目の前が真っ白になる。生臭い臭い。恐ろしいなにかの唸り声。 01.幕切 「殺生丸さまァ!!」 わんわんと泣いてしがみついてくる少女の声を聞きながら、彼は冷たい目をしたまま、もはや肉塊と化した"モノ"を見下ろしていた。それは彼にとってなんの意味も持たなかった。生きていても死んでいても、なんの意味もなかった。低俗で、愚劣で、同じ部類に見られることをなによりもっとも彼が嫌悪するもの。 鼻の利く彼には、不愉快な臭気を発するその塊の中に、違う臭いを発する塊があった。 その塊ももはや、ただの塊でしかない。 「殺生丸さま!」 涙を湛えた目が彼を見上げる。 「お願い!おねえちゃんを助けてあげて!!」 それが醜い塊の中に混じっている、白い香りする塊のことだとはわかった。もう死んでいる。腰に下げられた刀の中で、もっとも貧相なそれ。それを抜き払う。そうして見えてくるものを薙ぎ払うことで、彼にはできることがある。他の誰にも、できないこと。 しかし彼はその行為を行う必要性を、いつもまったく、微塵も感じてはいなかった。 「お願い!!お姉ちゃんはりんを助けてくれたよ!!」 あぶないと、咄嗟に押しのけられた。 地面に転がったりんが見たのは、大きな妖怪の太い腕。ぎらつく目玉。 走って、と力強い声がりんの頭を叩いた。がなくなっていない方の腕で、包みから抜き払うこともなくその中にある竹刀を振った。竹でできた刀でなんて、敵うわけがないとりんは知っていた。人間が敵わないことも、もちろん彼女は知っていたし、もうが助からないことも知っている。 りんはもちろん走って逃げた。すぐちかくにいるであろう助けを叫びながら。 そうしてもちろん。 彼は、きた。 「…うるさいぞ。」 本当に、煩いと思ったから彼はそう言った。 それでもやっぱりもちろん、少女はうるさかった。 「ねえ!!死んじゃう!!お姉ちゃんが死んじゃう!!」 「もう死んでいる。」 「まだだよお!!!」 泣き喚く声。 ひどく煩いと思った。彼にその少女の声―――特に泣き声は、ひどく癇に障る。 「お願いお願いお願いお願いお願いったらおねがいいいいいい!!!」 なんとも大きな声である。 森を劈いて、多分その向こうまで届くだろうと思った。 「…何者だ。」 呆れたように呟かれた言葉に、りんが顔を明るくする。 「わかんない!」 ギロリと冷たい目線。うっと唸りながらも、りんはめげない。 「でもね!きっとかごめお姉ちゃんの知り合いだよ!服がそっくり!」 そう言われて目を落とすも、もはやなにもよくわからないもつれた塊だ。 むしろ弟(と呼ぶのにも若干の抵抗を未だ彼は覚える)の連れ合いの名が出たことで、その"塊"を"人間"に戻すことに彼は倦怠感を覚えた。面倒なのだ。しかしそれ以上に少女が泣くのは面倒であるし、なによりこれ以上時間を浪費すると、少女の泣き声は必ず今以上に大きくなるに違いない。 ふうと彼は大きく息を吐く。 しゃらりと、欠けた刀が抜き放たれる。 途端世界が、暗く翳った。嬰児のような形相の、地獄の魑魅魍魎が、暗い土からもぞりもぞりと這い寄っているのが見える。彼はそれらをその冷たい金色の目で見下ろした。常であるならば何人にも見られるはずのない自分たちが、睨み下ろされている状況に、悪鬼は一度、きょとりとその大きな醜い目玉を瞬かせた。 刹那。 刀が振るわれた。 闇が、途切れる。 02.再演:序章 夢から覚めたように、娘が身を起こした。明るい日射しが、緑の木々の隙間から光の柱のようになって揺らぎながら降り注いでいる。 娘の白い肩を、黒い髪が滑って落ちた。その感触に少し彼女は肩越しに辺りを見回し、自らの体にかけられている豪奢な羽織に目を丸くした。そうしてたっぷり一拍置いて、自らが何も着ていないことに思い当たり、ぎょっとしてその見なれない着物を肌に巻きつける。 それからやっともう一度辺りを見回して、彼女は再びぎょっとした。 最初大きな犬がいると思い、しかしすぐに違うことがわかった。それは熊のような大きな体をして、さらには頭が二つ付いている。しかもその頭と尾は竜としか言いようのない形相をしている。驚きに悲鳴を上げることすらもできず思考を停止させた彼女に対して、その獣は彼女に気付いたようだ。のそのそと近寄ってくる。 恐怖に身を竦めた娘に構うことなく、獣はすぐ近くまで寄ってくると、片方の頭がその鼻先で彼女の肩を押すようなしぐさをし、片方は首を傾げてただ彼女を見ていた。猫か犬のような右側の首の仕種に、別の驚きで彼女の思考が固まりそうになる。 気絶するかもしれない。 長閑な光の下で、彼女はなんとかそれだけ考えた。 「あーっ!」 辛うじて彼女の意識を、聞き覚えのある声が繋ぎとめる。 「おねえちゃん!」 よかった目が覚めたんだねと笑って、りんが駆けよってくる。暗い森の中で見たのと同じ明るさだ。ほっと息を吐いた瞬間、娘はその暗い森の中で起きたことを思い出して悲鳴をあげた。 そうだ、なにか、なにかに襲われて―――。 やっと悲鳴が収まった後で、彼女ははっと自らの右肩に手をやる。 ――――腕。 おそるおそる目をやったさきには、普段と変わらず腕がある。当たり前のことかもしれないが、しかしそれは、おかしなことだった。夢だったのだろうか?あの痛みも、熱も、恐怖も? 突然悲鳴をあげた娘に少女は始め驚き、しかしなにか訳知り顔で、その幼い手のひらで彼女の頭をそっと撫ぜた。 「もうだいじょうぶだよ。殺生丸さまが、助けてくれたから。」 死んだと思った。幼い少女だ。だのにその手のひらのあたたかさに、おもわずの瞳からなみだがこぼれる。 「せっ、しょう…?」 「そう、殺生丸さまはね、りんのことも助けてくれたとってもいい人…あ、人じゃないか。とってもいい妖怪なんだよ。」 「ようかい…、」 混乱する頭とうらはらに、瞳からは安堵のなみだがほろほろと流れ続けている。止めようにも止まらず、嗚咽も慟哭も伴わぬなみだはただ静かに勝手にこぼれ続けるばかりで、少女にあやされるまま、流れるままにするよりほかない。 「おねえちゃんの服ねえ、襲われたときに破れちゃったの。天生牙でもね、やっぱり服は直らなかったの。」 くすくすとおかしそうに笑うりんに、は首を傾げるばかりだ。 「あ、この子は阿吽って言うんだよ!こっちが阿で、こっちが吽!」 得体の知れない生き物を、紹介される。 やはりとまらないなみだをこぼしたまま、それでもはちょっと笑ってその獣に手を伸ばした。恐怖と驚きの連続のあとで押し寄せた安堵に、感覚がマヒしてしまったのかもしれない。自分でもそう思いながら、彼女はやはり、少し微笑む。 「ああ〜っ!!」 けたたましい、しわがれたような大声が耳を劈いた。 「貴様!目が覚めたのか!!」 りんよりも小さな背丈をした、しかしその顔は翁のものである生き物が、奇怪なふたつの顔がついた杖をついてひょっこりと現れた。能面の翁と鬼を混ぜ合わせたような顔である。 鬼。鬼だ。 目を丸くした彼女の肩から、上着がずり落ちる。 服を着ろと言う鬼の怒鳴り声が、明るい森の中に響き渡った。 03.口上 まず彼女は、自らが一度死んだことを知った。 妖怪と少女の口から妖怪という存在を知った。これでもきていろどこへなりとすきなところへされ。と冷ややかな視線とともに投げ出された衣服に袖を通して以来、彼女は着物という衣服に慣れた。去れと言われて厚かましく後ろをついていくことにためらいを覚えなくなり、次に彼女は、妖怪というものに慣れた。 それからまず邪見を「邪見様」、殺生丸を「殺生丸様」と呼ぶことに慣れた。 食料を自分で調達することに慣れ、見知らぬ通貨を覚えた。人の畑から勝手に食物を頂戴することを覚えた。旅歩きの疲労をやがて感じなくなる頃には阿吽という獣の扱いに慣れ、邪見の口やかましさに慣れ、やがて殺生丸という男の無愛想さに慣れた。 驚くほどの順応性の高さだと思われるかもしれないが、それにはずいぶんな覚悟と決心と、少なくはない時間を要した。 最初はただ、わけのわからない状況の中、生き残る可能性に縋るために出会ったばかりの少女にしがみついた。それは結果、殺生丸と呼ばれる妖怪にしがみつくことと同じだった。 妖怪の溢れる、電気も機械もない世界。 わけのわからないまま、知らぬ世界の中で、生きる。 生きる。 その生への執着心が、彼女を驚くほど強くしていた。 ついてくるなと邪見は言った。りんはのことを気に入った。ついてくるなとは殺生丸は言わなかった。彼はなにも言わない。不思議とは、睨まれれば凍りつく、と称される男の視線に恐怖を覚えなかった。ただ男は時折、うっとおしそうな視線を投げてよこすが、にとっては慣れればどうということはなかった。 やがて邪見は、この女がいれば自分がりんの相手をせずに済むと言う、ひとつのメリットに気がついた。 その時から、彼女はりんの世話役のような位置に落ち着いていた。 その頃には、彼女はこの世界のことをずいぶんと理解し始めていた。 ここが、自らが暮らしてきた世界とはまったく違うことはすぐにわかった。しかし着物や、世間の様子は、妖怪の存在を除いて自らの世界の過去に酷使していることに気付くまでに、そう時間はかからなかった。それとも戦国時代と呼ばれる時代には、妖怪が存在していたのかもしれない。―――教科書に載っていないだけで。彼女はそうとすら思うようになっていた。 とにもかくにも生きねばならない。 元いた世界に帰る、その目的よりも先に、生きることが先決だった。少なくとも彼女に見えている方法は、この不思議な面々についてゆくこと。それしか見えなかった。 みっともないのは知っていた。あまったれている。そう思った。 わかっていても、どうしようもない。 一度自分は死んだのだと言う、理解の範疇を越えた事実にも、感慨がわかない。 きっとその、死んでしまった瞬間から―――いいや、死んで一度目覚めた瞬間から、どこか、なにかが欠落したように、麻痺している。時折、は、自らの胸を押さえてそうおもう。 現実感が、まるで希薄だ。深い緑の木々の合間から見える茜空の、うつくしいこと。錦の雲の下を、白い竜が飛んでゆくのが煙りの筋のように見える。 うつくしいと思いながら、どうしてこんなに、無感動なのか。 前を歩く殺生丸の、揺れる銀の髪を見ながら、はただ思考する塊と化していた。りんの楽しそうなおしゃべりに、反射神経だけで相槌を打つ。邪見がうるさいと喚きながら会話に参加してきて、それでもやはり彼女は、私はこの異形の存在に慣れる以前に無関心ですらあったのだということを考えている。 ちぎれた気のした右腕は、傷一つ見当たらず変わらず機能している。 麻痺している。 わたしはまだいちども、ついていかせてくれとことばにしていない。 いつもその思いが、ギザギザと毛の生えたとげのように、彼女の背中を重くする。お願いするタイミングを逃したのだと言い訳をする自分と、ついていく以外に方がないと嘆く自分と、願えば断られるだろうと恐れる自分、それにただ彼の銀の髪がきれいだと、無感動に呟く自分を感じている。 勝手について歩くようになって彼女が知ったのは、殺生丸という妖怪が、決して"善なる"存在ではないということだ。 自分を助けたのだって、このりんという少女の懇願に折れたからに他ならない。なぜついてくるのかと問わないのは、の存在が目に入っていないからだ。 神のような男だ―――いや、妖怪だったか。 自嘲気味にの口端が持ち上がる。 少女に泣き喚かれるのが煩わしいからと軽々と人ひとりの命を世に繋ぎとめ、少女に言われて衣服を与え、その後はその助けた存在のことすら、おそらく忘れている。ついてこられていることをたまに思い出すようだが、どうとも思っていないだろう。 無関心は敵意を向けられる以上に心身を萎えさせる。 りんの明るさと無邪気さだけが救いだったが、この少女に嫌われれば、生きるすべをなくすにも等しい。そうどこかで常に考えながら、このまっすぐな女の子に接するのがたまらなく苦痛だった。いつもどこかで、りんの機嫌を取ることばかり考えている自分が、たまらなく滑稽だ。そうしてひょっとしたら、それすらも見抜いてそれでも知らないようにふるまう、この少女が怖かった。 いっそきえてしまおうか。 できもしないことを考えては、虚しさが募るばかりだ。 再びなんともなしに見上げた夜空が、息をのむほど美しかった。かすかにのこった茜色。群青の空。星のまたたき寂しいくらいにあかるくて。 このせかいのそらはきれいだ。 「…きれい。」 ぽつんと落とされた言葉は、ちょうど邪見とりんがいつもの言い争いとも言えぬじゃれあいを始めたためか気付かれることはなかった。知らずの頬に涙が落ちたが、当の本人すら気付いていない。 ただその足が、あくがれるままに、ふらふらと進み出した。 04.花の色は 勝手についてきた女が勝手にいなくなった。 やはり彼はどうとも思わなかったが、りんがひどく騒ぐのでさっさと探しに出ることにした。 待て、まずなぜあんな小娘の我ままを聞いてやらなくてはならないのだ―――と一瞬でもこの男は考えたりするのだろうか。一瞬ほんの少しくらいは、きっと思い当たって忌々しく思ったに違いない。しかしそれ以上に、子供の泣きわめく声と言うのは、耳の奥まで貫いて、二、三日余韻が消えないほどにやかましい。あれを何日も聞かされるくらいなら、女を探しに行くことの方がまだ楽だった。人間などとくらぶベくも及ばず、獣の中でも群を抜く彼の嗅覚をもってすれば、匂いをたどり女を探し出すことなど簡単なことだった。 なによりその女の匂いは特徴的だった。彼に言わせるならば、かごめ、という娘に似た匂いをしていた。 巫女の匂いだ―――あの種の人間の放つ、花に似た匂い。 暗い闇の中でも花が香りその存在を知らせるように、あれらの種類の人間は芳しいと形容しても差し支えない香りを発する。それは魂の内側から発される匂いであり、あらゆる角度から生命に働きかけた。或る時は感情の荒ぶる波を鎮め、或る時は邪な念を諸共に打ち砕いた。そして或る時はあやかしを魅き寄せ、その欲をそそった。その魂の輝きが、香りが気高く強いほどに、闇に巣食うものたちはそれを嫌悪し、同時に熱狂的にそれを欲した。 彼にとって、その匂いはただ特徴的な匂いでしかなかった。 食ったらまずくはないだろう、くらいの感慨しか催さなかった。しかし間違えることはない。やはりそれらの匂いは、他とあまりに異なったからだ。 もし魂を目に見ることができるのであればその色はきっと他とは異なるのだろうし、香りが異なることは自明の上だ、その奏でる音も、きっと美しく耳触りなのだろう。 ふらふらと、女の匂いは蛇行し、病に浮かされたような足取りである。それを辿って幾許かの時間も経たないうちに、彼は女が月を追っているのだと気がついた。青い月明かりが積った落ち葉の上に落ち、道を敷いている。月が沈む西の方まで、その道は続いているのに違いはないが、月の沈む場所まで、夜明けが来るまでに女の足で辿りつけるはずもない。さらにしばらく彼は飛ぶように移動して、女の匂いが近くなったことに気付いた。 面倒ばかりを増やす女。 このまま見つからなかったと帰ってもよかろうという考えがふっと頭をかすめるが、一週間は少女の喚き声だとか、小さな嗚咽だとかを聞いて暮さねばならないことを考えると米神がツキツキと痛んだ。そもそも彼は嘘を吐くように生れついてはいない。少女が泣きわめく一週間、離れて過ごせば構わぬことだが、そうすれば邪見の愚痴を延々聞く羽目になるだろう。聞いてやる気はひとつもないが、もうあの金切声の最初の一音を遮るまでに漏れるあの音を聞くことすら億劫だった。 彼は知らずため息を吐いた。 いつからこんなにも面倒なものが増えた。 女はいた。 森の木々が開けた窪地に、仰向けに倒れていた。 最初彼は女が死んでいると思い、しかし彼女がその細い右腕を宙に差し上げたのを見、それが見誤りであることに気付いた。月光に指先を浸すように、女はその花のような手のひらを宙に差し出している。その爪の先で月明りがひと際青い燐光をあげたように彼の目には一瞬見え、そのめった変わることのない表情がほんのわずかながら驚きの色を移す。 その耳に小さな囁き声が聞こえてきた。歌うような、わらうような、たのしそうなひとりごとだ。 彼は女の気が狂ったと思った。 女の囁きに意味はなく、ただ言葉のない戦慄を歌っている。 不思議と背筋が泡立つような、なにか心臓のあたりを高いトーンで擦ってゆくような、そんなふとした寂しさを彼は感じた。その後で、さびしい、と言う単語に眉をしかめる。 彼はそんな感情を知らない。 「女、」 足音を立てずに歩くことも可能な彼ではある。 あえて落ち葉を踏んで、彼は月光の中に一歩進み出た。女は指の先あたりを見ていた目玉を、大儀そうに彼の方へ動かした。やはり狂ったかと思われた。かすかにその目玉が、笑みを含んでいる。 「げっこうぴあのそなた、」 呪文かなにかだろうか。 「…?」 「知らない?」 「知らん。」 そうでしょうね、と女はいった。ほたりとその腕が地面に下ろされる。それは花の突然落ちる様子に似ていた。椿。あの白い花が風も吹かぬというのに自らの重みに負けて地に落ちる瞬間に似ている。 「ピアノの稽古が嫌いだった…でもこの曲は好きだった。難しくって弾けやしなかったけれど。」 意味のない言葉だと彼は思った。 通じぬと分かっていながら発する言葉ほど無意味なものはないとも。 「…私はここではないところから来たの、」 彼は黙っていた。 あるいは聞いてすらいなかったかもしれない。 「ここがどこだかわからない。」 月光が美しい。女の白い肌の上に落ちて、真っ青な水底にいるような風情だ。彼は少し目を上げて星々を見た。もちろん見ただけで、なにも感じはしない。月は美しい。それが遠くにあるからだ。目の前に倒れ伏していながら女も遠かった。死人のように蒼褪めていた。 女はしばらく黙った。 女は彼が驚くべき忍耐強さで接してくれている幸運に気づいていないようだった。 やがて月がほんの少し傾いた頃に、女はむくりとその上半身を起こした。そのまま細い腕で細い体を鉛でできているかのように重たげに支え、それから彼に向って居住いを正して正座をした。月だけがしんしんと、彼女の周りに光を投げかけている。その輪郭が、闇から浮き上がって見えた。 「私の名前はです。」 その目は月明りを通して真っ青だ。彼はただじっとその目を見ていた。その目の向こうに、その魂の色が透けて見えるような気がした。青白く光を上げて燃えていた。どこか月に似ている。 彼はひとことも発してはいないが、しかし今初めて娘と自分が会話していることに気がついた。 「助けていただいて、ありがとうございました。」 女が深ぶかと頭を下げる。揃えられた指先がきれいだった。黒い髪が、肩から落ちるのをやはり彼はただ眺めた。 「厚かましいのは承知の上です。」 見上げられたまなざしは強い力を保っていた。 彼はこの女はまだ狂ってはいないとそう思った。 「私を連れて行ってください。」 初めて彼は言葉を発した。どこへ、と。宛のある旅ではない。ただ彼の足の赴くままに、彼は足を伸ばした。 「…あなたの行くところならどこへでも。」 強い力を持った言葉だった。 彼はなにも言わず女に背を向けた。女のほそい肩がこわばるのが見なくともわかった。彼は振り返ることもなく、その低くよく通る声で言う。 「凛がわめいてうるさい。」 なんとかしろと、言う意味だ。女が立ちあがり、自らの後について駆けだす音を聞きながら、彼はもう先ほど聞いたばかりの名を忘れた。 05. |