すこおし細かく、まるで絹糸みたいに、やさしくしとしとと雨の降る日は、大樹の元へ出かけて御覧なさい。その日が天気雨であるなら尚のこと。
きっと番人は、やさしくあなたを迎えて大樹の元へ案内してくれるでしょう。そしてきっと、同じことを言うはずです。さあ目を閉じて、耳を済ませてごらんなさい、と。大樹の下で、そのやわらかい雨を凌ぎながら、そのふかふかとした苔生す地面に腰掛けて、幹に背中を預け、そおっと目を閉じ耳を済ませて御覧なさい。
しとしとしと、と雨の落ちる音と、さやさやと楽しげに鳴る樹の葉の囁き。ひょっとしたら、あなたと同じように雨宿りに来た小鳥のさえずりだとかも耳に届くかもしれません。遠くで海鳴りのように聞こえる雨音と、それらに混じって頭上から、小さく小さく、遠い昔を懐かしむ、誰かの昔語りが聞こえて来ますから。
***
そんな言葉を耳にして、私は大樹の元へ向かった。
この星に溢れるマナを、すべて供給するこの一本のまだ若い大樹は、健やかにのびのびと、天に向かって緑の葉を広げている。この樹にまつわる英雄の冒険譚というものは大層有名で、それでいてもうずいぶんと古びたもので、我々のように大樹の誕生後に生まれた世代にとっては、それは枕元の寝物語だった。
マナを使い果たし大樹を枯らし、滅びかけた星を救うため、大樹の種、大いなる実りを求め、第二王子は宇宙へ旅に出た。そうして銀河の星霜を渡り彼は瀕死になって帰ってきた。黒い髪黒い眼知らない言葉を話す娘に抱えられて。そして王子は命をとりとめ、娘を失った。娘は実りの糧となり、大樹へ姿を変えたのだ。
子供の時分に聞いた話では、こんな悲恋じみた話ではなかった。確かにお終いの形はおんなじだが、わくわくするような、冒険物語だったものだ。英雄は、実りを得るために赴いた星で何があったのか、ほとんど語らなかったという。彼がどのように実りを手に入れ、そして瀕死の傷を負って帰ってきたのかは、おそらく英雄と娘以外、知るものはなかったのではないだろうか。だからこそ、その劇的な結末と始まりの間にポカリと空いた空白を、人は好んで埋めたがった。
幼い頃に私の聞いた話では、あちらの星には大樹を守るそれは恐ろしい竜が住んでいて、娘はその竜に囚われた姫君で、彼女と実りを手に入れるため、王子は戦いそうして傷ついた。そして娘が大樹に祈ると光の柱が現れて、彼女と王子とを彼の故郷へ送った―というような話しだった。どこで聞いても、だいたいそんな話だ。彼は戦う。自らの星と、娘のために。そして傷を負い、娘に助けられるのだ。
真実がどうであったのかなど、今となっては誰にもわからない。
誰にも?いいや、それは違う。
娘と英雄は、その真実を知っている。しかし彼らは、めったに人の――成人した大人の前には現れたがらないのだから仕方がないし、言葉を交わすことすら稀で、そしてとても貴重なことだった。
朽ち果てた白亜の城と、それを包むように伸びる大樹が見えてくると、もうすぐだ。その昔大樹が根付いたのは王城であったため、都ごと移ったのだ。今では白い都は緑溢れる森のようになっている。そしてその城を統べるのが――大樹だ。
城の入り口付近には古びた小屋がある。番人の小屋。
樹に寄り添い生きる者。もっとも多く、樹に宿るものの声を聞き、そのことを知るという――彼らもまた、大樹の正しい歴史を知っているのかもしれなかった。
私はすこし躊躇ってから、扉をそおっと叩いた。しとしとと降り続く雨が、マントに染みてぐったりとすこし重い。
「雨の中大樹に何用かな?」
「…昔語りを聞けたら、と思いまして。」
ドアを開いた男に、すこし驚いたがそれは顔にださないよう答える。こんなにも老いた人間というものを初めて見た。長命種である我々の、一生は長い。老いというものはあまりに遠く思えるほどに、我らのときの歩みは遅い。しかし目の前の番人は、とても老いていた。
ふかいしわにぐるりと取り囲まれた青い目玉が、私をおもしろそうに眺める。
「ほう?若いのにおもしろいことだ、歴史に興味があるのかな。」
「いえ、…ほんの気まぐれです。」
そうかいそうかい、と番人はしわを濃くして笑う。
「若い人、名前を聞いておこうか?」
「…です。」
そうか、、。番人は楽しそうに何度も私の名を呟く。では大樹の元へ案内しよう、と彼が言い、ふと悪戯っぽく顔を上げた。
「そうだ、覚えておくといい。」
「…はい?」
「番人の名前は代々決まっていてな、番人になるときその名を受け継ぐんだが。」
「…はあ。」
何が言いたいのだろう。私はすこし首を捻る。
「だから私の名はオビトと言うのだ。」
「オビト、ですか。」
「そうだ、その名を覚えておきなさい。」
「はあ。」
「それから今度来るときは何か…そうだな、土産を持ってきなさい。茶菓子などが好ましい。」
くつくつと笑って老人はさっさと歩き出した。
「ちょ、待ってください、オビト!どういうことです?」
番人が振り返って笑う。
「なに、私も先代とそっくりそのままの会話をしたことがあるものだからね。」
ぽかんと突っ立った私を置いて、オビトはさっさと歩いていく。
「置いてゆくよ、若いの。」
老人の曲がった背中が、しかしずんずん緑の中へ遠ざかる。そうだ急がねば雨が上がってしまう。太陽が白くきらめきだした。大樹の梢に、雨粒がきらきらと光を乱反射して輝く。葉の一枚一枚に虹が出る。噫、なんてなんて―――。
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