(百年の読書の話) |
長い長い物語を読み終わって、分厚い本の表紙を閉じる。長い年月を経て水をたっぷりと吸った紙は、乾いて黄ばんでいる。古い本の匂い。 ふうと長いため息を吐いた後で、なんともなしにダオスは心臓が小さく縮こまるような感覚を覚えた。 気がつけばあたりは暗い。ずいぶん集中していたようで、その内になんだか百年も経ってしまったような気がする。永い時間を持つ彼は、時折時間の感覚が飛ぶことがあった。まだあちらにいた頃は、研究に没頭し過ぎて、三日四日の時間を忘れることなどしょっちゅうで。 城中が静まり返っているのが気になった。あまりに長い物語で、まさか読む間に本当に時間が。 (ばかばかしい、) 重ねて心の中で否定する。どうしてこんなに静かだろう。 「?」 ふと呼んでも返事がなかった。あの娘がきてからというもの、城は小さな囁きに満ちて――。 なのにこんな静か。ガランとした静寂。百年ぶりのような気がした。 まさか本当に百年の時間がすぎて―――馬鹿げた妄想だ、ばかばかしい、しかし万が一、ひょっとして――?は人間だ、ただの人間。おそらくは。別世界の人間とはいえ、永遠を持たないかもしれない。彼はそれを知らない。だってまだと会って季節はそんなに巡っていないから。今城は、時に侵食されない時空の狭間にあるわけではない。流れる時の影響を受け、時計は進む。まさか、まさか――。 早足に暗い廊下を急ぐ。自分の靴音ばかりが響く状況こそ、百年ぶりのよう。 頭はめまぐるしく思考している。はどこにいるだろう。部屋?大広間?書庫?屋上?行くところは限られている。まずは妥当に彼女の自室だろう。扉を開ける。 「、」 一瞬暗くて、視界が追いつかなかった。暖炉の火は消えてしまっている。かすかにダオスは、足元がどこか遠くへ落ち込むように感じ、ぐるりと部屋中に目を凝らして息を止める。 いた。 はダオスから死角になる長椅子の上で丸くなって眠っている。百年の時は立っておらず、本を開く前、今朝会った時となにも変わらない。 ほっとしている自分に気づいた。は眠っている。健やかな寝息。あどけないほほえみ。 眠っている。 すう、と肩が上下する。そう、よく眠っている。 見下ろしたまま、ダオスは額を覆うように、前髪の下に手を差し入れてみる。やわらかいまるい形。熱を計るように、すこしそのまま手のひらを押し当てる。心なしかひやりとしていた。確かにもう夜、ここは冷える。 「 、」 起こそうと名前を呼ぼうと思い、しかしやめた。 そっと手を頭の上へずらすと前髪がいなくなる。白い額。は眠っている。 彼はすこしそのまま屈んで、顔を近づけた。ダオスの金色の髪が、天蓋のようにふたりぶんの顔を隠す。しんと静まり返ってあたりはしずか。 |
(てんき雨の話) |
ポツリ。 雨が降ったと思った。最初は雪かと思ったのだけど、額にふれたのはあたたかかったから違うと思い直す。雨が降ってきたなあと考えて、それからはくすぐったくなって少し笑う。 変なの。 もう一度考えて、はちょっとわらった。 へんなの、へやのなかなのに。 だから夢かな、とは思った。きっと夢だな、だからこんなにやわらかい雨が降るの。 とても優しい雨だったから両手にも受けようと思ってそろりと出した手をを誰かが掴んだ。大きくて固い手のひら。ぱっと胸に白い花が咲いた。ああやっぱり夢だ。だって手のひらの主が思い出せないもの。忘れてしまったのね。花が笑う、ねえ雨の続きはまだなの?花の先が雨の続きを待ってる。 はまだぼんやりねぼけていて、閉じた目蓋がとろとろとあたたか。思考がまわらない。ただ浮かぶのは、そのままそのまま。小さな囁き声。 「?」 忘れたはずの声に名前を呼ばれて目を開ける。 茶色い目玉。存外近い。ぱっとその名前と存在を思い出して、は気分だけ目を丸くする。もちろん実際には、まだ半分以上眠っているからうっすら目蓋が動いただけだ。 「…――ダオス、」 くちびるが勝手にその名を呼んだ。金色の髪がすぐ頬に触れていて不思議に思った。それにずいぶん視界が高い。思わずうとうとするような地面の揺れは、どうやらダオスに抱えられているようだと気づいたのはたっぷり一拍置いてから。手をひかれたのはこれか。落ちないようにとダオスの首に回された自分の腕を他人事のようには見る。まだ夢の中のようだ。 ダオスの髪がきれい。だってほら天気雨みたいな金色。輝く雨の向こうに虹を見るような。 強い腕はほとんど片手でを抱えあげている。 はダオスの肩越しに暗い廊下を見る。そこに降る雨を見る。まだ眠いな、落ちないようにきゅうと腕に力をこめてもなにも言われなかったから、そのまま頭がしっくり収まる位置を探し当てて額を押し当てる。ダオスの髪、やわらかいなあ。雨がまだ額に残っている。多分触れた時にそのまま固まって、印度の少女が額に飾る、透明な石のようになったのだと思う。 雨の続きはまだなの? コトリコトリと回る胸のあたりで、まだ白い花が咲いている。 |
(百年の読書とてんき雨の話) |