入道雲が妙にむくむく膨らんで、空が真っ青な日だった。
雲はまるで空を食べてるみたいに膨張し続けて、それでもその青は食い潰されることはなくポカンと広がっていた。その雲のちょうど真下あたりにね、神社があった。こんもり緑青を盛ったみたいな小さな森の中にね、古びた社がぽつんと立ってる。色の褪せた鳥居が一本、見げると雲を頂いてえらそうに立っていた。丹色のところどころ剥がれて、木肌が見えている。石畳の階段にはゆらゆら陽炎が立ち昇って、とてもとても暑い日だったよ。小さな森中蝉が木霊して、なんだか右や左の感覚がおかしくなるくらいだった。

私は石畳を、ふうふう言いながら昇って境内に入る。
新調した真っ青なスケッチブックと水彩絵の具、筆洗に筆箱。片手に抱えて、背中はじんわりと汗をかいていた。一息ついて、ぐるりと境内を見渡す。
乾いた砂はじりじりと焦げて熱く、熱気で揺らいでいる。緑はその中で匂うように色濃く、神社の古びた社が、今にも蜃気楼のように消えてしまいそうに見えた。
(…暑い。)
それしか浮かばない。首にかけたタオルで汗を拭うとそこに風が通って少し楽になった。
筆記用具を手に、のろのろと日陰に移動する。何もかもが夏のど真ん中のような日で、なんとなく、いい絵がかけるだろう、そんな気がしていた。
荷物を降ろすと、小さな頃境内で遊んだ記憶を探って水道があったことを思い出しあたりを見渡す。
社の裏側に、ひっそりと隠れるように蛇口の銀が光る。
(あった。)
色とりどりの絵の具の跡が残る元は黄色い筆洗を手に、日向へ少し早足で飛び出す。
濃い藍色のジーンズは細身で、足にぴったりと張り付くので少し暑い。古びたベルトの鈍い金の金具と筆洗が、カチャカチャと歩くたびに鳴る。赤いポロシャツは緑の中ポツンと目立つだろう。作業のための楽な服装は、それでもやはり暑かった。

ジワジワと蝉が歌う。森のずっと奥、少し暗い緑の辺りから時折漏れる油蝉や熊蝉とは違う、蜩の涼やかな羽音に私はほっと目を細めた。
少し固くなってしまっていた蛇口を捻る、と、今まで我慢していたように一気に水が溢れ出した。あたりに跳ねるのも構わないで、筆洗に水をたっぷりと注ぐ。やすっぽい黄色は水を含んで透き通り、地面に優しい色の影を落とした。名残惜しいような気分で蛇口を閉めると、とたんしんとなったような気がする。

そのまま社の正面に回りこんで、荷物を置いた木陰をふと見る。


どどう、と森が揺れて風が吹いた。蝉が一瞬泣き止む。
強い風に乾いた砂埃が舞う。
(うわ、)
風にさらわれたように音が止む。砂に目を瞑ってしまって、その刹那の寂漠(しじま)にはっと目を開ける。


一面春の嵐だった。
「うそ、」
桜の花びらが、風の形をそのまま映して塊のまま渦巻く。ざざあざざあと花びらのこすれあう音。視界すべてがやわらかな桜色に満たされて、なんてこと!この真夏に桜。そしてこの誰も見たことのないような桜の塊。
ぐるぐると竜のように桜風はとぐろを巻いて境内を唸り、そしてやがてだんだんと緩やかになる。
一際強く風が吹き、花が舞った。
強く目を瞑る。

しんとしていた。
しかし音はすぐに返ってきて、境内には風が少し渦を巻いて残っているだけだ。

(え?)

ふわり、とまるで先ほどの花風に乗ってきたようだった。
(え、)
少年が、日の良く当たった砂の上にいた。
目を瞑ったその一瞬のうちに、彼はそこにいた。

俯いた横顔、くすんだ砂色の髪にはどこか見覚えがあって、物憂げに伏せた瞼がうつくしかった。まぼろしのような少年だった。ふわ、と少年がいっぽ地面を踏む。風が止んだ。
(いつの間に階段をあがってきたんだろう。)
少年がふと階段のほう、私の真逆の方を見る。
その先の鳥居、入道雲。


(え?)

空に聳える半透明の巨大な緑の扉。
なんてうつくしい幻。私はいっしゅんふらりと倒れそうになる足を踏ん張る。
ゴオオオン、と鐘のような低く太い音がして、扉はすうっと空に溶けて消えた。
(えええ?)

少年がこちらを振り返る。私を見つけてはっとする。
その少年の顔。
「…見たことある。」
(噫でもいつ?どこでだったっけ?)
蝉がまた大きな声で歌いだした。筆洗が地にガチャンと落ちて染みを作ってく。
突然現れた少年。空を跨いだ巨きな扉。

(これはげんじつ?)
ただ蝉の声が耳にしみてゆく。
少年の途方に暮れたような無表情は動かない。




00.緑色の扉開いて