時が止まったようだった。まだ小学生だろう、少年が、ゆっくりと右を見て、左を見て、それから真上を見る。つられて私も上を見上げると、太陽の白光に眩暈がするようだった。その鋭い光に、思考が冴えてゆく。
今は夏。
あれは、(まぼろし?)
「…水。」
少年が声を発したのだと分かるまでに私は少し時間がかかった。すこし掠れた声は変声期を迎えようとしている少年独特のクリアな水色をしている。
「え?」
「水、落ちましたよ。」
少年がすっと指を刺す。視線をたどるとなるほど、筆洗が転がっていた。
「…ああ。」
そう言って私はかがむ。しかしかがんで目を上げたらもう少年は消えているのではないか、それを思うとすこし恐ろしくて、不必要に私は急いた。無駄にドキドキする。
噫こういうのを夏の魔法と言うのかしら。なにか、なにかこの少年はまぼろしに似た、幽霊だとか夢だとか神だとか精霊だとかあるいは思念だとか妄想だとか、なにか実体のない美しいものに思われた。風の又三郎。夏と共に訪れる青いガラスのマントを纏った少年を思い出す。暑さのあまり見る夢でも構わなかった。あまりに美しい、絵。私はそれを見た。覚えていさえすれば夢でもまぼろしでも現実でも、私は絵にすることができた。(噫どうかわすれませんように。)
消えないで、よりも私はそれをそっと願った。
そおっとそおっと、恐ろしいようなどこか厳格な思いで目線をあげる。
(…いた。)
顔を上げても少年は消えてはいなかった。
彼は不思議そうに自分の手のひらを見つめて、開いたり閉じたりしている。体があることを確かめてでもいるみたいに、握っては開いてを繰り返す。戸惑うような静かな表情は、それでもやはり、誰かに似ていた。
「ねえ、」
私がいることを忘れていたとでも言うように、少年は顔をゆっくり上げた。少年の額から、ツウ、と汗が一筋首まで垂れる。白い頬の輪郭が、なぜだかとても目に付いた。
かんかん照りのなか、少年は日向でジリジリと太陽に曝され、私は日陰に立っていた。
夢と現の境界線を、社の影が引いている。
怪訝そうに首を傾げた少年の顔に重なる面影に、ふいに私はその名前を思い出した。
とてもよく似ている。
「君、…美鶴くん?芦川、美鶴?」
それにぎょっと少年が目を見開き、一歩後ずさる。
芦川美鶴。遠い少年の名前。
もう随分と昔の映像が瞼の裏でフラッシュバックする。
教室の真ん中で、いつもみんなに囲まれて白い歯見せて無邪気に笑っていた男の子。サッカーが好きでいっつもボールを抱えてた。休み時間は一番に教室を飛び出した。
あの子だ。そうに違いなかった。
(…あれ?)
しかしそこではたと思い至る。
今目の前にいる少年は、どう見ても小学生だった。中学生に見えないこともなかったが、まだあどけないその顔。やわらかい輪郭の形。白く て細い腕。どう見積もっても、12、3才より上に見ることはできない。
しかしそれは、矛盾している。大きく矛盾している。
今、彼の目の前に立つ私の年は、もうこの夏で20才だった。
おかしいのだ。彼は小学時代の同級生であったはずなのだ。ならば彼もまた、20才でなければならない。今目の前にいる彼が本当に芦川美鶴ならば、それならば。
いったいこれはなんだというのだ?やはり夢かまぼろしか、それとも。(…幽霊?)(こんなかんかん照りの真昼間に?)
いくらなんでもそれは非現実的過ぎると首を振る。しかしまさか彼の子供というわけでもないだろう。兄弟?従兄弟?それとも、
少年がややあって、呆然と口をぽかんと開く。その顔に浮かぶ、信じられない、というような表情。私もそんなに変わらない顔をしているに違いないが、少年の驚きようはとても大きかった。
うそだ、と声はんく口だけそう動く。
「うそだ。」
少年は2回繰り返した。その目玉がうろうろと私を天辺からつま先まで眺める。
口を覆って何度も何度も、少年は私を見る。私が持ち上げた黄色い筆洗にでかでかと書かれた名前を食い入るように見て、そして。
「… 、 ?」
(噫。)
今度こそ眩暈がした。
蝉が鳴く。
(彼は芦川美鶴だ。)
01.真昼の幽霊