日がもっとずっと高く上がって蝉すらもばててくるまで、美鶴くんはじっと座って私のスケッチが終わるのを待っていた。
汗をほたほた垂らしながら、暑いなんて一言も言わない。
我慢強いというかこれは、
(意地っ張りめ。)
額の汗を拭いながら黄色と青の絵の具を混ぜる。バシャバシャ筆洗で筆を洗って柄を角にぶつけて水を切る。プラスチック独特のポンともカンともつかない高い間抜けな音が響く。
*
『びっくりしまくったけど、まあなにはともあれそうだよ、私スケッチしにきたんだよ。』
唐突にそう言うと美鶴くんが怪訝な目をして私を見る。
『終わるまでそこでちょっと待ってなね。』
ポカンと(ああそうそうこんな音!)して美鶴くんが私を見上げた。
『なに?』
『なにって、なん、で。』
なんなんだこいつは、信じられない。
美鶴くんはだんだんそんな顔になる。彼が考えていることが手に取るように想像がつく気がして、私はそれがおかしくってたまらないんだけど、我慢して素知らぬ顔をした。
『なんでって美鶴くんこれからどうすんの。』
『どうするって…。』
『もう魔法は使えなくなっちゃってるしヴィジョンの扉が開くのは来年なんでしょ?行くとこないじゃんか。』
そうなのだ。どうして美鶴くんがこっちにきたのか、あーだこーだ話し合ってはみたのだけれど、私なんかよりよっぽどヴィジョンに詳しい美鶴くんにわからなければ私にわかるわけないわけで、試しに唱えてみた魔法も発動しなくて、お手上げになったのはついさっきのことだ。
なのに美鶴くんはまだ信じられないような顔をする。
(おいおいどうするつもりだったんだこいつ。)
私は少し唖然とする。
本当にどうするつもりだったんだろう。
幾ら賢くってしっかりしている子供でも、この世界は11歳が自力で生きていけるほどやさしくもなければやわらかくもない。知らないはずはないだろう。君は一度君が信じて愛していた家庭という小さな世界に裏切られたばかりだのに。おまけにこの世界は、美鶴くんのいた世界の延長線ではあるかもしれないが別の世界なのだ。君にはいっそう厳しいだろう。予想くらいできるくせに。
(ほんとに意地っ張りだ。)
私はむんと腰に手をやる。
『あのねぇ私は11歳の男の子ほっぽいてさよならするような薄情な大人に育ったつもりはないんだけど?』
*
それだけ言って私は画材をよいしょと持ち上げて木の下に移動してスケッチブックを広げた。
なんだか世界の終わりのような顔をして、それから美鶴くんはずっと社に座っていた。困っているようないぶかしんでいるような、いろんなものを、大人を、信用していない目だ。
(ほんとに変なお姉さんだと思われたのかな?)
彼からすれば私はやはりもう同級生の、ではないのだろう。
(そうだ、そういえば美鶴くんは私を『』とは呼ばない。)
『サン。』
とってつけたようなさんがなんだか悲しかった。君とそんなにも大きく間を隔ててしまったのだ。
そして私も、美鶴くんを庇護すべき少年としてみているに違いなかった。小さな君。私の知るもっと小さな太陽みたいな男の子の延長線、月色をした君。
彼にとって私はやはり大人の女のひとなんだろう。女の子ではありえない。
(それはつまり彼の信用していない大人と私が同じということで。)
(…噫それはなんだか、)
「かなしいな。」
つぶやいた言葉はあっさり夏の湿気に滲んでどっかにいってしまった。
すこしばてて休んでいた蝉がまた泣き出して、思い出しようにお腹がすこし鳴る。
悲しくたってお腹は減るし、死にたくたって喉は渇く。人間はそういうものだ。私は知ってる。
(1時半。)
腕の時計を見ると天を仰ぐ。朝からのかんかん照りに拍車がかかって、白い光が肌を射すようだ。
スケッチブックは半分ほど埋まっていた。
(もうじゅうぶん。)
私はパレットを閉じるとよいしょ、と立ちあがる。
「おおーい美鶴くん!」
呼ぶと、深い思想に沈んでいたんだろう、夢から覚めたようにはっと美鶴くんが顔を上げた。
「お昼だしお腹すいたし暑いしそろそろ帰ろうかー!」
それにばっと立ち上がって、そのまま美鶴くんは立ち竦んだ。
すこし距離が離れていてもすごくよく分かる。彼はどうするべきか途方に暮れているのだ。
「あのねえ言ったでしょー!」
美鶴くんの指先が、ひくりと動くのがなぜかすごく良く見えた。
「私は行く宛のない小学校五年生を放り出したりなんてしないし、」
美鶴くんがすこし泣きそうにして首を傾げる。さらりと砂色の髪が流れる。
「友達が困ってたらねえ、力になりたいんだよ!」
ねえだから一緒に帰ってよ!
今度こそ美鶴くんは黙って俯いた。神社へ来たときより確実に膨れたように感じる画材を抱えて、私は社に近づいてゆく。のんびりのんびり、ほんとに気にすることはないんだよ、ってそう言うみたいに。
「…、ともだち?」
だから美鶴くんのちいさなちいさなかすれ声も、荷物が重たくって知らないふりをした。
ほら行こう、って言って返事も待たずに美鶴くんの前を歩き出す。
ついておいで、って祈るみたいに、心臓がドクドクと早鐘を打った。頼むから一緒に来てほしい、幼い君をこのまま放り出したくはなかった。私を信じてほしかった。
だのに私は背中を振り返らない。振り返るのが怖かった。
美鶴くんが、軽蔑するような目でそこに立ち竦んだままだったらどうしよう。私は大人に徹することができるだろうか。
「あっついねー待たせてごめんね、汗かいたでしょう。」
「…。」
「私の家すぐだからね。あ、家族はいないから言い訳とか考えなくていいよー楽でしょ!」
「…。」
「ご飯なにんしようかー今からだとちょっと遅くなるけどいい?なんか頼む?」
「さん。」
え?、と振り返ると美鶴くんは怯えたようにそれでもまっすぐ私を見ていた。
その凍えたような唇がすこし息を吸うために動く。どんな言葉が飛び出すんだろう。ものすごく緊張しながら、同時にとても冷静に私はその口から言葉が出るのを待っていた。
「あの、 」
美鶴くんが言う。
「ありがとう。」
小さな声だった。でもちゃんと目をみて彼は言った。
「…どうしたしまして。」
なんでだかすごく照れくさくなって私は、へへえ、と頬を緩める。
「あーそうだ、暑いしお蕎麦食べようか。」
隣で黄色い筆洗を持って、美鶴くんがすこし頷く。
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