さんは、本当に変な大人だ。いいや時々、子供なんじゃないかって思ってしまうことがあるくらい。
まず過去から来ましたって話も、ヴィジョンなんていう別の世界の話も全部、『美鶴くんがそう言うならそうなんでしょう。』って信じてしまう。嘘をついているわけじゃないし、信じてもらえたほうが有難いのだけれど、なんだか拍子抜けだ。さっぱり何を考えているのかつかめない。

、って呼んでた、俺の知っている小さな女の子の面影を少し残して、さんは大人の女の人になっている。俺なんかよりずっと高い背と、白くて細い手と足。美鶴くん、って笑ってた縁の丸い指は、今ではすらりと長い。
ここ数日、さんの家に置いてもらってわかったのは、彼女が大学で美術の勉強をしていることと(一番広い部屋野中には絵の具や図録や画集やおっきなキャンパスやスケッチブックがそこら中に散らかってる)、美鶴くんって笑う目の緩み方が変わらないこと、料理がうまいこと、なんだかとてもお人好しで、いつも微笑んでいること。それくらいだ。
自分で言うのもなんだけど、行き成り現れた変な子供を家に置くなんて、ちょっと無用心だ、と思う。
(ああでも、)
『もう随分ひとりだったからね、美鶴くんが来てくれてうれしいよ。』
だなんてそんな風に優しい顔をされたら、たとえばそれが自分を安心させるために彼女の言う嘘だとしても信じてしまいそうになるじゃないか。

ため息を少しつきたいような気分。縁側に座って足をぶらぶらさせていると、斜め上で風鈴がチリンと鳴った。
さんは台所で西瓜を切っている。隣のおばあさんが朝早くに持ってきたのを見た。きっとさんはにこにこして受け取ったに違いない。そんな様子が軽々と想像できた。
「へんなの。」
ジーワジーワと蝉が鳴く。
変な話、9年後の世界で、大人になった女の子と、俺は西瓜を食べようとしている。
ちょうど見上げた空を飛行機雲が伸びていって、なんとなくそれを眺めてた。

と、ジリリリリ、と今時見たこともないような古風な黒電話が鳴った。
「はいはいはい、っと美鶴くんちょっと出てくれる?」
「うん。」
最初はそのけたたましい音に驚いたけれど、今はもう慣れた。
「はい、です。」


*


さんはケータイを持っていなかった。なんでと聞いたら、ケータイは嫌いなんだよ、と彼女は少しほほえむ。
「どうして?あれば便利なのに。」
それにさんはそりゃあねーと笑う。笑った顔はあの頃のそのままだ。目元を弛めて綿雲みたいにふんわりと笑う。
美鶴くん美鶴くんって笑ってた、同じくらいの身長だった女の子は、時間をすっ飛ばして、ハタチ、なんていう想像のつかない大人の女の人になっている。

さんがお茶を一口すすって、おいしい、と笑う。

「事故にあった時にねぇ、ケータイが転がってね、ずっと私の目の前で緑の着信ランプが光ってた。私それをずうっと見てたの。だからケータイは嫌い。」
ピーマンが苦くて臭いから嫌い、そんな気軽な感じだったから思わず聞き逃しそうになった。顔を見ればさんはなんてことはないというような、まるでさっきまでの世間話の延長を繰り広げている。
「え、」
「なに?」
ほんとになんでもない、そんな感じだ。俺にはまだわからない。なぜなんでもないと言えるのかなぜ仕方がないと言えるのかなぜそんな普通の調子で話せるのかなぜそんな負い目を感じさせないのかどうしてあなたはそんなに、(やさしくしあわせそうに微笑むことができるんだ?)(まるで普通の、明るい家庭で両親に囲まれて育ったように。今だってまるで家族が余所にいるみたいだ。)
「…なんでもない。」
「?…ああ。気にしてくれたの?」
さんがにっこり笑う。

「美鶴くんは優しいね。」
「…そんなことない。」

「ありがとう。でも私は大丈夫だからね。」

さんはにっこり笑う。ほんとうに悲しみも苦しみも、微塵も寄せ付けないんだ。


*


チン、と受話器を置く。
「なんだった?」
「変なセールス。」
「やっぱりか。」
さんが笑いながら、お盆いっぱいに切った西瓜を並べてやってくる。これ全部二人で食べるの、ってぼそりと目を丸くしたら、「がんばろうぜ美鶴!」っていう的外れなニヤリという笑いが帰ってきた。

「やっぱり西瓜と縁側だな、夏は。」
わはは、と笑ってさんが赤い西瓜を齧る。西瓜は良く冷えていて甘くて、噛むとシャリシャリと端から崩れてゆく。
西瓜を食べるのは久しぶりだと思う。小さい頃、今だってさんから見れば十分小さいんだろうけど、今よりもっと小さい頃、アヤがいた頃、一緒に西瓜を食べたっけ、って考えて、たまらなくなる。西瓜のずっしり重い縞模様のまん丸はしあわせのかたちだ。しあわせな家庭の食べ物だ。俺はもう随分口にしていなかった気がする。口の中いっぱいに水分が広がって、ひんやり喉の辺りが冷えていった。
「…西瓜だ。」
そう言ったらさんは、そりゃそうだよ、って目を丸くしておかしそうに肩を揺らした。
それに曖昧に少しだけ笑って、俺は考える。

俺がいなけりゃだれと西瓜を食べたんだろう、ひょっとしたらひとりぼっちで西瓜を食べるさんのこと、さんと西瓜を食べる自分のこと。
西瓜。
アヤ。
お兄ちゃん今日のおやつは西瓜なんだよ!おっきいの!そう言って手を引いたあの子。
もういない。

(どうして、)
ヴィジョンで掴んだはずの、終わったはずの何かは、噫ここに生きて(多分)こうして立っていると、ちっともわからなくなる。間違ったのだけは今でももずっと分かっている。でも、それだけじゃない、形のないなにか、名前のない何かを掴んだと思った、知ったと思った。でもそれはこんなにも朧で掴みどころがない。
なにを得たんだろう。何か変わっただろうか。
だって思い出したら、今までと変わらない。こんなにも悲しくてどうしようもなくて、腹立たしくて(痛い)。

どうしてあの子がここにいないんだろう。
さんはそんなこと、考えたりしないんだろうか。
どうして自分はひとりぼっちなんだろう、って。
思えば記憶の中のも、同じように笑ってばかりな覚えがある。ただ、ひとつ違う記憶と言えば、
(あ。)
少し思い出す。放課後、誰もいないグラウンドで、困ったような笑顔を浮かべては手のひらのカーネーションを弄んでた。手持ち無沙汰な様子だった。どうしようか、って困ってるようにもほんの少し泣き出しそうなようにも、それからすごく、たとえば女神とかそういうなにか人間を超越したもののように穏やかに、寂しく微笑んでた。

「おいしいねー。」
「…うん。」

こうやって笑っているけど、やっぱり大丈夫なもんか平気なもんかと思う。
でも同時に、やっぱりあなたは平気で大丈夫なんだろうとも思う。
俺にはわからないんだ。少し途方に暮れている。
悲しみの置き場を知りたかった。しあわせをどこから見つけてきたんだろう。この両手に余る悲しみをどこに捨てればいい?俺にはまだわからない。ずっと幸福をさがしていた。でも見つけられない。
それが子供だからというなら不公平だ。大人になれば自然との隙間は埋まるのか?そんなわけないと思う。埋まるわけがない。だからこの悲しみが空虚が埋まるならなんだってする。そう思ってた。
でもそれが間違いなんだって気づいたらそうしたら?(俺は、どうしたら、いい?)

気づいたところで悲しみは埋まらない。幸福はやってこない。
掴みに言ったはずの青い鳥は、なんてことはない、自分自身の暗い影だった。鳥はどこにもいやしない。
西瓜は甘くて、少しぬるくなってきた。
お腹の中が西瓜でいっぱいだ。少し息苦しい。




その晩夢を見た。
の夢だ。あの日の夢。
グラウンドに伸びた影。
?』
呼んだら振り返った。その顔はさんだった。
そして彼女は笑う。とてもしあわせそうに。




06.西瓜から派生する