軋む廊下をそおっと渡っていくと、台所から小さく音がした。
最初は消し忘れかとも思っていたけれど、やっぱり違う。彼女は起きているのだ。
そう思った瞬間、ひどく緊張した。なにをやっているんだろう。なんと言って顔を出すつもりなんだろう?電気がついてたから気になって、とか?なぜだかそれは、とても馬鹿げたことに思えた。いつもの自分ならば、電気がついてる、それだけのはずなのだ。なのにのこのこ明るい電灯の下に出て行くのは、とても間抜けな事に思える。
こわいゆめみたんだ。
そんなこと言えるわけがない。
こわいゆめ。
(どうして君は、)
血塗られたわけでも痛い目にあうわけでもない。静かで穏やかな、わるいゆめ。
少し立ち止まって廊下を振り返る。古い家屋独特の廊下の狭さ細さは、人間を見下ろして閉じ込めるようだ。特に真夜中は。廊下の突き当たりの影の方で、なにか蠢いたような気がする。
(…馬鹿馬鹿しい。)
*
「ああ、美鶴くん。」
どうしたの、ってさんが顔を上げた。
少しばつが悪くて、あ、とも、う、ともつかない声を出すと、さんは不思議そうに首を傾げた。
「電気が、ついてたから。」
間抜けだと考えたばかりの言い訳を口にして、もぞもぞと言いよどむ。つま先を眺めて恥ずかしいような情けないような気分ででも沈黙は我慢ならなくて顔を上げると、さんとぱっちりと目が合った。黒目がちの丸い目が、どうしたの、って尋ねるようにまっすぐこっちを見ていた。
「あ、」
部屋に、戻る。そう言おうと思った。
「…待ってて。ちょっとだけ、ね。」
にこっと笑ってさんは出て行ってしまった。
取り残されて肩の力が抜ける。何をこんなに緊張する必要があったんだろう。自分でも馬鹿だと思った。
待ってて。
そう彼女は言った。
やることがなくて、テーブルに手をついて木の乾いた表面を少し撫でる。ざらりともさらりともつかない感触は、ごわごわしてあったかかった。ほのかに赤味がかった電灯に照らされた世界はこじんまりとあたたかで、先ほどとは別の意味で肩の力が抜けてゆくのが分かる。
真夜中の台所。
恐ろしくもなんともなかった。むしろいっそ安心すら覚える。昼間の会話や料理のしたく、米の炊ける煙、スープの湯気。ほんのりたまねぎの匂いがした。そういうものが、静かに降り積もって真夜中まで残っているので、夜の冷たさも入ってはこないのだ。
ふっと心が空白になってような心地がして、ストンと椅子に腰掛けた。
色あせた水色と白のストライプのクッション。鯨の模様のカレーの染み。
廊下を早足で歩く音がしてはっと顔を上げた。
さんはちょっとひっこむとタオルケットを持って戻ってきた。その髪の毛が一房ふよんとはねてて、なんだかおかしい。おっきなタオルケットは二枚あって、ひとつは真っ白な無地でもう一枚は青い水玉の模様をしていた。
「はい。」
って微笑みかけながら、さんが無地の方のタオルケットを投げて寄こす。それは空中でぶわっと広がって、頭から被るように受け取る羽目になってしまった。
「なにするんだよ。」
むっとしたような声が出た。そんなに怒ったわけではないけれど、意識しないと俺はいつでも怒ったような声が出る。
ちらりと見上げると、ごめんごめん、と気にもしないように笑いながらさんが向かいの椅子に水玉のタオルを置いていた。またぱっちりと目が合う。なんだかタオルケットの隙間から自分が覗き見していたみたいな構図は気まずくて、ばさりと、頭からタオルを引き離す。やわらかい布地は干したての匂いがした。
「電気ついてたから起こしちゃったでしょう?ごめんね。」
さんが笑う。
「…別に。」
起きたのは電気のせいでもなんでもないのだ。でもそれは言えなくって抗議するみたいな響きになってしまったことが酷くもどかしい。
「いやー制作してたら寝付けなくなっちゃってさ、これは駄目だなあと思って。」
それは知っていた。昼間うんうんと唸りながら、さんはおっきなキャンパスとにらめっこしていたのだ。日に透かした葉っぱみたいな、緑がキャンパスに広がっている。何枚も何枚も、景色を切り取ったような丁寧なスケッチが辺りに貼ってあって、そのくせ画面の上にはよくわからない形が並んでる。
『知ってるよ、ちゅうしょうがって言うんだ。』
そう言ったらさんは目を丸くして笑ってた。
『難しい言葉知ってるねえ美鶴くん。』
当たり前だ。小学校5年生なのだ。大人にそういわれると馬鹿にされているような気がする。
『でもこれ抽象画ってわけじゃないんだよ。』
さんの背より高いキャンパスの前で振り返って彼女が笑う。
『みえるものをそのままかいただけなんだよ。』
あれからずっと描いてたんだろうか。
流しの方へ回ったさんがカチャと音を立ててカップを二つカウンターに置いた。今更ながらにヤカンが湯気を噴いているのに気がつく。かすかな甘いかおりが鼻に届いた。
なんのにおいだろう。
「美鶴くんも飲むといいよ。ゆっくり眠れる。」
ゆったり笑ってさんはカップにヤカンから液体を注いだ。
はい、と手渡されてそおっと手に取る。
「なにそれ?」
「お茶ー。」
間延びした返事をしてさんは向かいに腰を下ろした。椅子の上で膝を抱えて、上からタオルケットを被る。そうしてお茶を啜っていると、さんの顔だけ見えて、なんだか、そう、俺の知っている子供の頃の彼女がそこにいるような気がした。
(そんなわけないのに。)
馬鹿馬鹿しくって手のひらで包んだカップに目を落とす。
不思議な匂いのするお茶だった。両手にカップを抱えて鼻を近づけると、ふんわりと遠慮がちにあまい香りがした。紅茶とも違う、不思議な飴色をしている。
「…なんのお茶?」
「んー?」
甜茶、と答えてさんは少しわらった。聞いた事のない名前だ。おいしいしほっとするから、とカップを揺らして底を見つめてる。台所はしんとしていた。床からじんわり冷えてくる。
口に入れると最初は確かにウーロン茶だとかの味がする。でも飲み込んだあと、ほんのりと喉が甘くて不思議な感じがした。砂糖のたぐいとは違う甘味だ。あったかいお茶が胃のなかにストンと収まる。
意外と落ち着いてきている自分に気がついて、すこし変なかんじがした。
もうひとくち。じんわりと甘さがひろがってゆく。
居心地が悪くはない沈黙が広がっていた。瞼がちょっぴりとだけれど、重くなってくる。
「美鶴くん。」
ふとさんが顔を上げてこちらを見ていた。
ドキリとした。
まるであの夢の続きのようだとふと思った。カップを持つ手が小さく震える。タオルケットに包まって小さく丸くなっているさんはまるで、(大人の顔をした子供。)
抽象的な意味ではない。夢のなかで、子供のの体に、おとなのさんの顔が張り付いていた。
同じだ。ギクリと背中が強張ってゆく。
馬鹿な。違う。だってここは。
台所だ。真夜中の。でもここに真っ暗な夜は入ってこられないはずなんだ。
なのになのに。
喉が引きつるかんじがした。
『どうして君は、』
夢の中の言葉がちかちかと脳の裏のほうで瞬いている。
怖い。―――怖い。
「ねぐせがついてる。」
ニヤ、とさんが笑った。自分の髪にも寝癖がついてるなんて知りもしないで。
その顔。
(…噫。)
あの頃のまんまだ。
10.繰り返し繰り返し
20070915/