「…おばけビル?」
ヴィジョンの入り口だったっていう?そう尋ねるとすっと美鶴くんは頷いた。
彼の現れた神社にはなんの手がかりもない。10年に一度開くのだというヴィジョンへの扉。一度それを潜りあちらで死んだ彼が再び潜れるかすらわからない。
だいいちその周期が訪れるのは今年ではないのに。
わかっているはずなのに酷く美鶴くんは焦って見えた。そんなに焦らなくても。言おうとして私は口を噤む。焦るに決まっている。もう美鶴くんがここへきて二週間にもなる。8月ももう過ぎようとしている。"普通"の小学生は学校へ帰ってゆく時間がやってくる。小学生の夏は人生で一番長いけれど短い。
大人が学校へ帰らない子供を見てなんと言うか聡い彼はわかっているのだろう。そしてその彼を匿っている私がなんと言われるのかも。
彼のほうがよっぽど大人だ。
「どうするの?」
「…少しでも手がかりがあるなら調べたい。」
美鶴くんは少し私の鼻先辺りをじっと見ながら答えた。そういえばいつからだろう。最近美鶴くんと、あまり目が合わない。
「うん、…そうだね。」
(――いつからだろう?)
少し寂しいかもしれない。
そんなこと表には見えないように、美鶴くんの目を覗き込んだ。やっと目が合って少しほっとする。不思議な虹彩をしている。茶色の向こうに、マゼンタの水面が揺らめいているような。不思議な。
「どこだっけ?その町。近ければ明日行こう。」
「×××町。」
「…ああ、電車で2時間もかかんないね。よし、早起きして行こうか。」
「うん。」
そうして少し沈黙が走る。
美鶴くんは余裕のない目でカレンダーを見ている。8月25日。
やはり最近美鶴くんは、帰ろうと少し焦っているようだった。
むしろ今までは、『失敗すれば二度と戻れない。』その意味を死ではなく別の時空に飛ばされ元の世界に帰ることができない、ととらえてあきらめた節さえ見えたのに。
いつからだろう。彼が焦り始めたのは。
私にはよくわからなかった。けれど帰りたいと美鶴くんが願うのは当然だし必然だと思う。知ってる世界に帰る、それは必要なことなのだ、水が違えば魚は住めない。それと同じ事。
「…夏休みももう終わりか。」
ポツンと美鶴くんが言った。
彼は知らないのだ。大学生という生き物の夏休みが、小学生よりうんと長いこと。それでいて小学生の頃よりは、世界は大きくもなくキラキラ光ってもいなくて、すこし落ち着いて穏やかに時が過ぎること。
あの頃私は想像もしなかった。夏休みは8月31日まで。それが世界の常識だったのだ。
君の中でも夏はきっと、8月でおしまいなんでしょう?
そう思ってはっとする。
「大学生の夏休みはね、もっと長いんだよー。」
「ほんとに?」
「ほんとう。」
そんな風に美鶴くんと話す自分の声が遠くに聞こえた。
そうだ。
それでも夏はじき終わる。
夏休みと称しながら、秋の風は吹く。
そして彼はやがて帰るのだ。
おっきな世界。高い青空。小さな体の天辺からつま先まで満ちるあの真っ青な夏。
そんなものが満ちている、君の時間。
懐かしい過去へ。
11.夏の日時計