タタントト、と電車が揺れる。
こんなときでもスケッチブックを手放さない私に、美鶴くんは少し呆れながらそれでも緊張しているみたいだった。
*
『帰りたい?』
最初の頃、酷く小さく落ち込んで見えた背中に当たり前のことを聞いたことがあった。
『…分からない。』
美鶴君は小さく答えた。
『どうせ待ってる奴なんていないんだ。』
その横顔は寂しくって拗ねてる子供の顔だ。よく知ってた。
『…そうかな。』
美鶴くんは黙っている。少なくとも彼の話に出てきた男の子は、君を待っててくれるんじゃないだろうか、でもそれは私が言うべき言葉ではない。
『そうかなぁ。』
まだあの頃は蜩より油や熊蝉が多かった。
*
(…やっぱり帰りたいくせに。)
きゅっと強張って窓の外を見る美鶴くんの白い頬の辺りをみやって私は少し笑う。意地っ張りで大人びてて、しっかりしてて頭が良くて。それでも彼は、やっぱり11歳の男の子だ。色素の薄い髪が光に透けて、とてもきれい。
見ていたら、なんだか少しいたずらしたくなって、その緊張して強張ってる顔が少しでもほぐれればいいのになと思う。だって、私の知っている美鶴くんは、キラキラ笑う男の子だった。どっちがいいかなんて、言わない。
でも、ね。やっぱりもう少しくらい、笑わないにしたって気を抜いたっていいと思うんだ。
私は、わざとよぉし!と声を出してスケッチブックのページをめくった。
美鶴くんが目をぱちくりさせて頬杖をついてた顔を上げる。歳相応の顔だ。
私は「ふーむ。」と唸りながら鉛筆を持った腕もまっすぐ美鶴くんに向けて片目を瞑った。
タタントト、と電車が鳴って、ほんとにびっくりしたように目を開いたあどけない美鶴くんが映る。
「はい、美鶴。動くなよー。」
その言葉に美鶴くんがさあっと髪を浮かせる。ほっぺたがほんのり赤くなった。
「なにするんだよ。」
肩を竦めて、すこし身を引きながら美鶴くんは私を睨んだ。
「なにって美鶴くんを描くんだよ。」
「はあ!?」
「はい動かないー動かない。」
にこにこ笑うと今度はおもしろいくらい美鶴くんがうろうろ視線をさ迷わせる。隣のボックス席に座った初老の夫婦がこっちを見てくすくす笑ってた。
それに美鶴くんはますますほっぺたを赤くする。
「何勝手に人のこと描くんだよ!」
小さな声で美鶴くんが言う。
「えーいいじゃんかケチー。電車代払ってやってんだからお姉さんの言うこと聞きなさいよー。」
「な!」
ねえ、ってふと思いついて視線を感じる隣のボックス席に向かって微笑むと、奥さんの方がくしゃりと目尻のしわを深くして微笑んだ。
「描いてもらえていいわねぇ。」
っておっとり微笑まれて美鶴くんがうっ、って黙る。
ほら、って目をやって鉛筆を走らせ始めると、ふんとふてくされたようにそっぽを向いて美鶴くんは窓の外に顔を向けてしまった。構わずにその横顔を手のひら、つま先と描いてゆく。
「スラスラ描けるもんだなあ。」
旦那さんのほうが、へえ、と感心したように言った。
「うまく描けてるよ。」
そしてそう美鶴くんに声をかける。
美鶴くんはのろのろスケッチブックを覗き込んで、ぽつんとだけ。
「…ちゅうしょうがじゃないね。」
とだけ言った。そうしてまた景色に目をやる。
後に残った大人さんにんは、ぱちくりと目を見合わせてそれから少し笑ってしまった。
頬杖をついた手のひらの下の、美鶴くんの頬はまだ少し赤い。
12.銀色の電車
20070918/