先に立って歩いていた三谷(大人をこう呼ぶのは少し不思議なかんじがした。でも三谷は三谷で、三谷はワタルだ。)が「ここ。」と言って振り返る。
駅前通りの小さな白い壁の喫茶店だ。見覚えがあるような――ないような。
古そうな外装と真っ青な看板に白い文字。Step Father。(…どういう意味だろう?)俺にはまだ分からない。
うれしそうに青い傘をたたんで、三谷がドアを押した。カランとベルが鳴る。
まるで自分の家に入るみたいだ。
後ろから気まずそうにのろのろ続く俺は、傍目にどう映るだろう。
「亘!遅いぞ!」
口を大きく開けて、でも器用に小さく囁くようなボリュームで怒りながら、男の人が出てきた。よく日に焼けて、目玉と歯が白い。こじゃれた黒いエプロンをしているのが、なんだかちぐはぐな気がした。
…どこか見覚えがある。
「ごめんカッちゃん!」
三谷が目尻を下げて笑う。顎からポタポタしずくが垂れるのをカッちゃん―それでわかった、あの頃三谷とよく一緒にいたやつだ。短く刈り上げた髪のかんじも変わっていない―が呆れたように眺めながら、大きな声を出した三谷にシィーッと動作で示して、なんて言ったっけ、名字、小村、は「待ちくたびれて寝ちゃったんだよ、ちゃん。」と言った。
ちゃん。その親しげな響きになんとなくむっとする。
気に入らない。
小村が目で指した方を見ると、なるほど、さんが机に突っ伏して眠っていた。
「わ、ごめん。」
三谷に慌てて小さな声で謝る。
「…やっぱり熱あるみてぇでさ。今おっさんが奥で薬探してる。」
熱。心臓が縮こまるようにヒヤリとした。
さん。
三谷の後ろにいた俺にやっと気づいたんだろう。覗き込むみたいにして小村がずいと斜め上から俺を見下ろした。俺のことは覚えていないのだ、と三谷から話は聞いていた。
「あー、お前か、あんなキレーな姉ちゃんに心配かける愚弟は。」
「…。」
「ハハ、ハ…。」
黙って見上げると三谷は明後日の方向を向いて笑っている。俺とさんは兄弟ということにでもしてあるらしい。
「ケンカもいいけど雨ん中こんなんなるまで歩き回って…まあったく姉ちゃんに心配かけるなよな。」
「…。」
わかったか、とえらそうに言われて、しかもその後頭をグリグリと撫でられた。俺のほうが昔は背が高かった。なんだかとても、腹立たしい。嫌な気分だ。このえらそうにしている相手が小村だと思うと余計に。
「こらカツミー!!!」
奥からものすごい声が飛んできた。びっくりしていると、まだまだ声は続く。
「いつまで立たせてんだ!早くタオル渡してやれ!床が洪水になるだろうが!」
おやじさん床の心配ね、と三谷が乾いた笑みを漏らす隣で、俺はそおっとさんの様子を窺う。確かになんだか、顔色がよくない。
「…さ、」
「ほらお前まで風邪ひくぞ!」
と、小村がタオルをひょいと俺の頭に引っ掛けた。そのままワシャワシャと頭を乱暴に拭かれて俺は少し痛くて叫ぶ。
「自分でできる!」
なんだかわいくねえのー、と口を尖らせながら(その割りに顔が笑っている)小村がカウンターの向こうへ引っ込む。亘、ホットでいいなー?と尋ねる声に、三谷がうん、と頷く。コーヒーなんて飲めなかったくせに。少し驚いて三谷を見上げたら、「ん?」と頭をタオルで拭いた格好のまま、三谷が俺を見下ろした。
「どうした?ミツル。」
「…なんでも、ない。」
「そっか?」
少し不思議そうに首をかしげて笑うと、三谷はまた頭を拭き始めた。
恐ろしいようななんだか足元の地面がストンと抜け落ちてしまったような心地がして、慌てて首を振る。"ワタル"はここにいない。ここにいるのは、ここに、ここに。
(―――おいてけぼりだ、)
そこのお子様はココアな!という勝手な小村の言葉が思考の邪魔をして、その言い草にまた腹が立ったけれど無視する。
(…俺はコーヒーくらい飲める。)
お前らがお子様だった頃とは違うんだよ、と言ったって相手にされないだろうから、黙っておく。そして彼らは今はもうお子様ではない。俺は、お子様のままで。
カウンターに背を向けて、そおっとさんのほうに近づいた。小さく肩が上下していて、よく眠ってるみたいだ。静かな吐息。ペチと頬に手のひらを当てたらやっぱりとても冷えていた。うっすらと青白い。
「…さん、」
おーい美鶴ココアできだぞー、といつの間にか馴れ馴れしく小村が背中のほうから呼んでいる。
「さん、」
さんは起きない。姉弟ってことになっているから、あんまり大きな声で名前は呼べないから、内緒話みたいな小さな声になる。さん、そおっと呼ぶとそれはなんだか呪文のようなかんじがした。
すっかり冷えて、青く透き通ってしまいそうな女の人。
美鶴くん、雨の中悲しそうに呼んでくれた。
「…ごめん。」
声は少し掠れた。どうせ小さな声だったから、誰にも聞こえやしないんだ。
23.誰も知らない
20080111/