「おはよう、美鶴くん。」
さんが笑う。いつもとなんにも変わらない。
「…おはよう。」
今日の朝ごはんは卵焼きとトマトと…とニコニコ笑いながら説明しているさんは、本当にまるで何もなかったようだ。あのまま結局三谷に送られて昨日はさんの家に帰った。一晩眠ったら彼女はすっかり元気になったようで、今日俺が起きたらもう台所にはほかほかの白いご飯が並んでた。
何にも変わらない。なにもなかったみたいだ。
でもおかしい。おかしいだろう?昨日あったことをなかったことにできるんだろうか、過去にあったことをなかったことにできる?例えば昨日殺された妹をなかったことにするとか、昨日殺してしまった何千人をなかったことにするとか、昨日口にしてしまったひどい言葉をなかったことにするとか。
(…そんなこと、)
できるわけない。
さんはきっと覚えているんだろう?俺があやの聞いたこともない悲鳴を忘れられないのとおんなじに。さんは覚えているんだ。大嫌いだ、と叫んだ俺の声、大嫌いだと拒絶した俺の顔。ぜんぶぜんぶ、覚えているんだろう?(…そんなのおかしい。)
おかしい。おかしい。おかしいことだ。ほんとはみんな、わかってるんだ。
「さ、「美鶴くん。」
さんがにっこり笑った。それはそれはにぃっこり。なんだか変な感じがした。
「冷めるから食べなさい。」
「俺は、」
「いいから食べなさい。」
有無を言わさない響きがあった。珍しい。やはりいつもの、朝ではないんだ。
「いただきまーす。」
さんは席に着くとさっさと食べ始めている。朝のニュースを見ながら、おいしいなぁと自画自賛して箸を進めている。なんとなく気後れしながら椅子に座ると、味噌汁の匂いが鼻を掠めていった。白い皿に乗せられた、ふわふわの卵焼き。やわらかい黄色をしている。そおっと赤い箸で摘まんだら、やんわりとした弾力。今日もおいしそうでなぜか、困った。
「いただきますは?」
『おにいちゃんいただきます言わなきゃだめーなの!』
『ほら、美鶴、いただきますは?』
『…、
「いただきます。」
噫嫌だな。すこし泣きそうな声が出てしまった。さんがはっとしたように目を真ん丸くして俺を見ている。(やだな。)目を合わせないように急いで卵焼きを箸で摘んだ。それにさんが、あっ、と声を上げる。
彼女がそう慌てたように叫ぶのと、俺が卵焼きを口に放り込んで咽たのは多分同時だ。
「ふごぶっ!!…!?…!!!?」
「あちゃー…はい、水。水。」
不味い。不味すぎる。説明なんてできない。甘いのか苦いのか辛いのかしょっぱいのか味があるのかないのかゴムを噛んだような気分もするし砂糖の塊を口に放り込んでしまったような気もする。
「なっ、な、な…!」
言葉が出ない。なんだこれ、なんだこれ!不味い。ああどうしようそれしか浮かんでこない。ほんとにもうありえない。まっずい。不味い不味い不味い。人間の食べ物じゃない。
「なん…!」
さんがテーブルを挟んで眉毛をさげて気の抜けたような笑い方をした。
「いやあ…やっぱりとめようかと思ったんだけど間に合わなかったねえ。」
「はあ!?」
頬杖を付いてにこにこしたままさんが続ける。
「朝ごはん作ってて、卵焼きやいてたらもうすっごく腹が立ってきてね。こっちはまさか小学校5年生に見返りだとか求めるような下心はまかり間違ってもないわけだし、そんなことで自分を満足させようなんて馬鹿馬鹿しいことこの上ないし。私は君のこととても大好きなんだけど、好き放題大嫌いだの偽善者だの言われちゃって、小学校5年生のくせにそんな小難しい単語ばっかり知ってる君とその卑屈な思考回路に腹が立って、おまけにそう見られていた自分にも腹が立って、」
一気にそこまで笑顔のまんま言い切ったさんに、ティッシュで口をぬぐいながら唖然とした。だってほんとに優しい顔しているのだ。(まだ口の中が不味い。)舌が麻痺してる気がする。うまく言葉が出てこない。
「私はなにか特別なことしてるつもりはなかったんだよ。だってそうでしょ。あったりまえのことでしょう?」
さも当然とさんが言うので、ぽかんと口をあけてしまった。
当たり前?当たり前って、なんのことだ?
「目の前に行く宛もなければこれからどうすればいいかもわかんない小学生がいてその子は知り合いで。ねえ選択肢なんて決まってるんじゃないの?私のばあちゃんだとか、君のおばさんだとかがしたことと変わらないことなんじゃないの?そりゃ君は死んだはずでしかも過去から来たなんてちょっと特殊だったけどでもあとは大して変わらないじゃん。要するにどうってことないことなの。」
違う?と言ってさんが首を傾げる。
大層なことに違いないのに、それをどうってことないと平然と言ってのけたさんが、なにを言っているのかよくわからない。どうってことない?やっかいな子供ひとりしょいこむことがどうってことない?ありえない。ありえない。
ぐるぐるぐると頭のなかが回ってる。まだ舌がもたついていて、うまく言葉が出ない。ああでもそれは卵焼きのせいなのかなそれとも何か別の。
さんが笑う。
「君は生憎とどう頑張っても子供なんだよ。子ども扱いするなってそればっかり言うくせに、大人と子供は友達になれないだなんて言って私との間に線引きをする。気づいてた?私が君を子ども扱いする以上に、私のこと大人だって線引きしてたのは君のほうなんだよ?」
残念ながら私はまだそこまで大人になりきれていなくって、と言う笑顔は至極楽しそうだ。私はまだまだ自分が子供のつもりでもいたから君と友達になれてると思ってたのに。
「なのにあんなふうに言われて、腹が立って仕方がないから、仕返しをしてみました。」
調味料あるだけつめこんだんだよ不味かった?、そう言ってほんと子供みたいにニシシって。
「私は大嫌いって言われてすっごく傷ついたので、」
仕返し、あっけらかんと笑ってさんの両手がテーブルをまたぐ。白い手のひらがペチと両方の頬を包み込むように軽く当てられた。ひんやり冷たい。頭の中の不安定な揺れがぴたりと収まる。すうっときれいに凪いでゆく。目の前でさんが茶色の目玉を細めて笑った。
まだ彼女の言うことひとつだって理解できてやしないのに。現金だ。馬鹿みたい。
「これであいこだよ、美鶴。」
「…ばっかみたい。」
ここへ着てから俺は変なんだ。なんだってこんな泣きそうな声ばっかり。
さんがへにゃりと笑う。
「ね、我侭言ったってかまわない。ほしがっていいんだよ。」
25.子供の領分
20080221/