いつもの時間になっても起きてこないなんて珍しい。
朝食が冷めるなぁと考えて、台所からふらふらと外へでた。美鶴くんの部屋はしんとしていて、障子も締め切られたままだ。…まだ寝ているんだろうか?しかし、ここへ来てからというもの、美鶴くんが遅刻したことなんて、一度だってなかった。
(…まさか。)
庭の向日葵が目に入ってその黄色にはっとする。
まさかとは思うけれど、一昨日の卵焼きが今頃効いてしまったんだろうか。お腹抱えてうんうん唸っていたらどうしよう。小さな胃薬の瓶を右手に握って少し部屋の障子をあけるのを躊躇う。
醤油、砂糖、酢、塩、マヨネーズ、コーヒーの粉、マスタード、鷹の爪、ガラムマサラ、タバスコ、バニラエッセンス。
手当たり次第に放り込んだ調味料が、脳裏をよぎる。仕上げのわさびはやはりまずかっただろうか?
(…やりすぎた…。)
おねーさんは反省してます、と小さく呟いてみる。後からこんな後悔、というか反省する事態に陥る自分は、やはり大人ではないと思う。けれど、年をとったらそんなことなくなるかしら、と考えるとそうは思わない。要するに、私には、きっと永遠につきまとうのだろう。この子供みたいな悪戯とその小さな後悔。
「…美鶴くーん?」
そおっと障子をあけて覗き込むと、きちんと畳まれた布団に一筋私の背中から光が伸びた。
「美鶴くん?」
いない。きれいに片されて、しんとしている。
なぜだかヒヤリとして、慌てて辺りを見渡すと、背の低い小さなばあちゃんの書架机の上に、広告が裏返しにキチンと置いてあった。隣にはなくしたと思っていた青色インクの万年筆が並んでいる。
なぜかな、少しほっとして、広告を手にとった。
右上がりの、少し几帳面そうな、男の子の字が短く書かれている。
「少し、家に、行ってきます……?昼には戻るので心配しないで下さい。美鶴。」
もう一度読み返して、首を捻る。蝉がジワジワと鳴く。あの子朝ご飯も食べなかった。
部屋を見渡すと美鶴くんに渡しておいたひよこのがま口も見当たらないので、きっと持って行ったんだろう。…今まで意地でも使おうとしなかったくせに。
蝉の声が心臓の辺りを端から蝕むような気持ちがして、もう一度、手紙に目を落とす。
「家…?」
いったいどこのことだろうか。家、家?
彼の家。
(…あ、)
ふっと小学生の、美鶴くんがいたころの映像がよぎった。青い屋根、白い壁。向日葵が咲いてた。
「まさか、」
手紙を持つ手が震えた。だって、そこは、そこは。
彼の人生を変えた場所だ。そしてそこは、彼が失った場所弔った土地。そして。
(あそこは、もう)
「美鶴くん…!」
思わずそのままつっかけで飛び出した。夏も終わりというのになんて入道雲だろう。朝から日差しがまぶしくて少し暑い。美鶴くんの家、どの辺りだったろうか。4丁目の辺りだったような記憶がある。記憶は朧だ。第二小学校の校区だから、そう狭いわけでもない。もちろん彼が迷うはずなんてないだろう。
走ったのなんて久しぶりだ。
半袖の下で背中がうすら寒い汗で少しじっとりとしている。つっかけはカタカタ鳴ってどこかへ飛んでいってしまいそうだった。
28.境界線の町
20080325/