なにもない。
本当にそこには、なにもなかった。剥き出しの地面を、ぐるりと有刺鉄線と木の柵とが囲んでいる。赤い立ち入り禁止の文字。なにもない。剥き出しの、乾いてひび割れた土地。住宅街の中で、まるでそこだけ、隕石でも落ちて滅んだみたい―――そこまで考えて愕然とする。
滅んだ。滅んだ土地。そこは確かに跡形もなく滅びきっていた。
白い壁も、青い屋根も。こぼれるほどのひまわりも。どこにも見当たらない。見つからない。
ここにはもうなにもない。何も。
俺の家は、もうどこにも。ないのだ。
どこにも。
「…あや?」
小さく呼んだら声は殆ど乾いて掠れてしまった。
そうだ、どこかで思ってた。
ここに、ここに帰ってきたら、誰か、誰かが。(お帰りって、言ってくれるんじゃないかって。)
どうして誰もいないんだろう、どうして、どうして。ここには何もかもがなくなってしまったんだろうか。
なにもない。ないのだ。
何もかも、何もかもが。
もう。
「…、!」
気がついたら柵も鉄線も越えていた。やはりなにもない。
ただの更地。
ぽかんとそこだけ異空間のよう。
俺の家はない。
「…なんで、」
その時、なんとなく何か聞こえた気がしてはっと身を固くする。…何か聞こえた。心臓が今までにないほどに脈打っている。何か、何かなんだなんだ?それは、
――おかえり、お兄ちゃん。
「あや…? あや !」
いない、いない。声だけ聞こえた。ぐるぐると、四方を見渡す。いない、いない!
どこだ、どこに、どこに。空か?それとも、
ふと地面が目に映った。むき出しの、乾いた。
「あや!あや!!ここにいるのか!?あや!」
がりがりと地面を手で引っかいた。声はここから、聞こえるのかもしれない。土を掘る。乾いていて、とても削れない。それでも両手で必死に掻いた。爪のはがれるような気持ちがした。何も見えない。砂を掻き出す。黒い土。この下にいるのだろうかいまも助けを求めているのだろうか俺の、俺の。
「 !!!!」
殆ど悲鳴だ。千切れそうな叫び声が、すぐ側で聞こえた。
誰の声だ?ああ、あや、今、今。
「あや!今助けてやるから、な」
ザリ、と土が音を立てた。手が止まる。
(助ける?)
…馬鹿な。
(あの子はもう、)
死んでるのに。
手を止めたらそのまま笑いたくなった。そうだ、もういない。
魔法の道はもう取り上げられてしまった。呪文も、力も、女神も。
すべてはみんな、俺ら永遠に閉ざされている。そして俺は間違った。二度とかえることはない。もうあやが俺を迎えることはないのだ。(たったひとつの可能性を除いて。)
そうだ、そのたったひとつの可能性を、選ぼうと思ったことはなかったのだ。今まで、俺は。
どうしても会いたかった。でもそうだ。俺は同時に、死にたくもなかったのだ。死後の世界なんて、そんなの妄想だ、ずっとそう言ってきた。死んだって会えるわけないのだ。どこかでずうっと死にたい、と思いながら、それでもあやを取り返したかった。死にたくなんてなかったんだ。それがどんなにか痛くて恐ろしいことが伴うか、俺は見てしまった知ってしまった。
(…あや、ごめんな。違う、違う、違ったんだ。)
できるなら、いいや今すぐにでも代わってりたいと思う。
どんなにかどんなにか痛かっただろう。君のためなら。君のためなら千回だって。それでも二度と、かえることはない。
確かにここにいたのに。
もういない。死んでしまった。
それが俺は嫌で嫌で嫌で嫌でー!!
(なぜここにいないどうして死んでしまった?あや。あや!どうしてどうしてなんでどうして。俺を置いていった?帰ってきて帰ってきて帰ってきてひとりだ俺はひとりなんだ!)
そうだ、俺はあやにかえってきてほしかったんだ。生きていてほしかった。
おかえり、ってそう、変わらずに言って欲しかった。俺の家。
そのために俺は間違った。ひどいことをした。たくさん、たくさん。他でもない、あやを理由にして。
それでもあやは言ってくれるのか?まだ耳の奥にさっきの声がこだましている。
おかえり、おにいちゃん。
「…、 」
そうだ、あの時、死んだときだ、掴んだと思ったもの。思い出した。
「俺は、」
もうずっと長い間、それはあったのだ。
呼んでほしい、誰か、誰か。俺の名前。迎えに来て。そうだ、そうだ、ひとりはとてもつらくって――。
「美鶴くん!」
噫ほらどうして。あなたなんだ。
耐えられないよ。
29.月面
20080409/