「なにやってんの美鶴くん!」
さんが慌てた顔をして塀を乗り越えてきた。少し高い柵を登るためには、頑丈に塀に絡みついた鉄線をどうしても握らないといけなくて、さんは痛そうに顔をしかめる。
――包丁でちょっと指の先切っただけでも大騒ぎしたくせに。
思わず言葉が出なかった。
画家の卵なのに手に傷つけたああああ!とかなんとか。
転がるみたいに塀から落っこちて着地すると、さんは本当に泣きそうな顔で駆け寄ってきた。さんの履いていたつっかけが塀の向こうにボトリと落ちた。半分裸足で、でも、そんなの気づいてもいないみたいだ。
「もう!馬鹿!手ぇ出しなさいああもうこんなに血が出てるよ痛い痛い!」
自分だって血が出てるくせに。
さんのやわらかい手のひらに両手を取られて初めて、自分の手のひらから血が出ていたのに気づいた。鉄線を掴んだときに、きっと血が出ていたのだ。…気がつかなかった。
「…気がつかなかった。」
素直にそう口が動いて少しびっくりする。
「…ものすごく痛そうだ。」
自分のことでしょう。とさんが眉毛を八の字にしてなんとか笑った。
ああしまったな、って思う。そんな顔、いつだってさせたいわけじゃなかったのだ。そんな顔させてばかりだけれど。本当に、本当なんだ。そう思う。
なんのための置手紙か、わかりゃしない。結局また俺は、泣かせてしまうのだ。情けない。
じっと手のひらを見る。ぼろぼろ、って言葉がぴったり。人差し指の爪が見当たらなくてまいった。でもどうしてか、そんなに痛みは感じない。じんわりと熱く、しびれている。さんのやわらかい手のひらから滲む血のほうが、よっぽどよっぽど、痛そうに思えた。
さんだって、痛そうだ。」
そう言ったら、馬鹿、って言われてしまった。誰のせいなの、って。でもあんまりその言い方が優しかったので、俺はまたびっくりして顔を上げる。さんはジーンズのポケットから白いガーゼみたいなやわらかいハンカチを取り出して、俺の土と血でぐしゃぐしゃな手のひらを一生懸命擦っていた。
そのまぁるい目玉いっぱいにじんわり涙が滲んでいて、それを見たら、俺は。
「…ごめん、さん。」
思わず口をついて出た。
「…そのうち本気で怒るからね。」
「うん。」
「…ほんと、卵焼きレベルじゃ済まないんだからね。」
「…うん。…ごめん。」
少しふたりとも黙った。さんが小さく鼻を鳴らすおとだけ聞こえた。

「帰ろう、美鶴くん」

(…噫。)
ボトリとついに、その目からしずくが一滴こぼれて血に混じる。滲んで消えて、でもそこにある。俺の黒い血は、まろく優しくなるような気がする。
さんの手のひら。傷だらけだ。血だって出ている。なのに、俺の手のひらを拭っている。
優しい手だ。いつもそうだった。

『美鶴くん、』
俺はいつだって、もらってばかりだったのだ。
『これ、あげる。』
カーネーションには形があった。だから見えていたし、覚えてた。

さんが鼻をすする。俺はこの人を泣かせてばっかりだ。ここに居ちゃいけないのだった。そうだ、ここに居てはならない。そもそも居ないはずの存在なのだから。


あの日、雨の中、俺を連れた大人の三谷が言った言葉を思い出した。
『いいか、よく聞けよ…ミツル?』
その時三谷は、一瞬黙って、それから初めて、俺と会ったようにまじまじと俺を見た。その口端にみるみる笑みが浮かんだ。昔と変わらない、能天気そうな、しあわせそうな、と言っておいてやる、そんな類の笑みだ。
『ミツル!』
『な、なんだよ?』
三谷の眼差しは真剣な様子できらめいている。
『ミツル。家に帰れ。』
『は?』
そのときは、言われなくても帰れるもんならとっくに帰っている。そう思った。
『ミツル。必ず帰れ。』
でも違う。そうだ、そうなんだろう?      ワタル。

俺は帰らなくてはならない。
俺の家はここにはなくて。そうだ、置き去りにしてきてしまった。おばさん、と呼ぶと少し困ったような顔をする人。あのきれいな人が、多分、待ってくれているのだろう。
そして俺は、この人をこれ以上、泣かせたらいけないのだ。だって俺は、この人を泣かせることしかできない。その涙を拭うには、身長だって随分足りないし、この手はまだどれだけさんが拭ってくれたって、汚れすぎている。
土を掘ったのはなぜだ、扉が開かなかったのは?なぜここにきた?どうして今でなくてはならなかった?誰が俺をここへ連れてきた?どうして死ななかった?なあ、あんたは誰なんだ?
おかえり、って聞こえた優しい声を思い出した。
あや、俺は多分わかったんだ。もう一度俺はわかったよ。
忘れたことを思い出した。
だから帰るよ。
さんの顔を見上げる。変わらないところがたくさん、たくさんある。三谷もそうだった。何もかも変わったけれど、何も変わらない。

「俺、「子供の悲鳴がしたんです!」
誰か知らない人の声が聞こえた。
「…美鶴くんの声、すごくよく聞こえた。」
さんがしまった、と顔を固くする。ここにいるのはまずい。流石に10年近く経っているとはいえ、この界隈の人間は、俺のことを忘れていはいないだろう。小村とは違う、ヴィジョンに関わる前の俺は、きっとさんの記憶に残っていたように、誰かの記憶にも残っているに違いないのだ。
「…どうしようか。」
さんが困った風に笑った。そのくせどこか楽しそうなんだから、敵わない。
「逃げるよ美鶴!」
さんが俺の手を取った。女の人の、少し大きな手のひら。また痛いのはいやだから、と笑って、さんは器用に狭い柵の隙間をすり抜けた。引っ張られてそのまま後に続く。
「血だ!」
誰かの悲鳴が聞こえた。
「やっば!」
さんがスピードをあげる。ぐいぐい走って俺を引っ張っていく。
さんは半分裸足だ。走りにくい、って言ったかと思うと、そのままポオン、と、半分残ったつっかけを蹴っ飛ばしてそのまま走った。どこかの庭先に、桃色のつっかけが着地する。
握られた手のひらと、そこから続く腕、肘、肩。その先に続く首の曲線、てっぺんで結んだ髪。耳の後ろ。見上げた先でもろもろって崩れかかった入道雲をバックに白くほのかに光っていた。
――帰ろう、美鶴くん。
その声が心臓の辺りで、コトコト鳴っている。



30.かみさまかみさま


20080410/