ゆっくりと自分が小さく収縮し、そしてほどけてゆく感覚。覚えがある。小さな光の粒になる。
噫、さようならもありがとうも言えなかった、そう考えたら泣きたいのか幸せなのかわからなくなった。もどかしい気分だ。なんだって。なんだってだろう。さん。あの人のところに帰りたいと無性に思った。
一度もありがとうを言わなかった。昔のようにとも呼ばなかったし、下の名前でだって呼ばなかった。
どうしてそんなことを悔しく思うんだろう。もっと思うことはたくさんあったはずなのに。
靴、約束したのにな。あのまま彼女は、裸足で歩いて帰るんだろうか。
たったひとりで。誰もいない家に。
(――さん、)
ごめんなさい、とも、ありがとう、ともつかない泣き出したい気持ち。
今度こそきっと、このまま消えるのだろう。
だから。だからこそ。
もう一度会ったらありがとうをいわなくちゃ。そうして掴んだ、わかったはずのこの答えを、手放さないでいようと思った。胸の前で手をぎゅっと握る。
俺はもう、忘れてはならなかった。
たとえこのまま死んで、自分が自分でなくなってしまったって。そうしていつか、自分であったことなど忘れても。それでもこれだけは、手放してはならないと、そう思う。
暗闇だ。
目を閉じているから?それとももう閉じるべき目蓋も失ってしまったから?トクトクトクと鼓動が聞こえる。これは誰の?――俺の?それとも、

ストンと落ちる感覚がした。
「え?」
なくしたはずの口から声が出た。
「――え?」
耳元で騒がしい。たくさんの鳥が叫ぶような笑うような声。
「なんじゃなんじゃ騒々しい……――おお!?ミツルか?!」
真下から声がした。聞き覚えがある――老人の声。
もう失ったはずの目を開く。俺にはまだ体があって。
「ラウ導師…!?」
落ちていた。
緑の滴るような鮮やかな森に落っこちてゆく。あのへんてこな鳥達が俺の周りを飛んでる。びっくりして目を見開いている間に緑の森もラウ導師も置いて。彼も驚いてそのまん丸な目玉を落っことしてしまいそうなほど見開いているのが、ぐんぐん落ちる視界にチラッと見えた。
「ミツルなぜお主ここにおるんじゃー!?」
そんなの、俺が、
「俺が聞きたい―!!」
ぽかんと地面にあいた穴に吸い込まれてく。ラウ導師もあっという間に遠ざかって、緑の光が宝石のように遠くなって、暗転。一面の暗闇。それは一瞬。

闇を抜けた。

ぽぉんとと空に放り出される。どこまでも真っ青。
「―!!」
地面の下に空があるだなんて、非常識じゃないか。なのに思わず、笑ってしまう。
なんて青。青だ。
真っ青な空。
どんどんどんどん落ちてゆく。ゴウゴウ風が唸り唸って耳元を通り過ぎてゆく。
真っ青な。
空。
服の裾がバタバタ鳴った。
両手を広げて落ちてく落ちてく!雲をいくつも突き抜けた。真っ青な空。地上すら見えない。高いところ。両腕を広げて下を見る。下にも上にも、広がるのは青だ。真っ青な世界。そこにぷかりと、白い壁。
それも一瞬に通り過ぎて突き抜けて引っ張られるような気分がする。グイグイ落ちてゆく。
風が煩い。
どこまでもどこまでも、このまま終わらないんじゃないだろうか。そんな気さえするほど、視界には青しか映らない。
このままどこまでも、落ち続けてゆくんだろうか。
一際厚い、雲を抜ける。視界が真っ白になった。
それでも体が、どんどん落ちてゆくのがわかる。
雨粒や氷の粒が、顔に当たってバチバチ痛い。
雲を――抜ける。
青い空と、そうだそして緑の広がる大地。これが。
「ヴィジョン!!」
まっすぐに落ちてゆく。
――みつるくん。
一瞬あの人の声が聞こえた気がした。
重力に逆らって、体を捻って振り返る。くるりと体が宙で回って、目が眩みそう。真っ青。太陽がひとつ。あれも星なんだ。そう思う。なんて眩しい。今度こそ涙が一粒コロリと転がった。そのまま千切れて、俺とは反対に、太陽のほうへ昇って飛んでいった。
眩しい空だ。光に満ちて。
行こう、行こうと風が囁く。行こう、口の中だけで小さく呟く。
美鶴くん帰ろう、声がする。抱いていこうと思った、そう微笑む声を。
帰りたいだろう?誰かが言う。
ああそうだ。
「帰りたい、」
独り言は風にちぎれてく。
あや、笑ってる。母さん、父さん。もういない。おばさん、困ったような微笑み。俺を呼んでる笑顔の三谷、ああばっかみたい!
「俺は帰りたい!!」
光が答えた。
ぎゅっと胸の前で両手を握って、俺は地上を睨む。ぐいぐい近づく地平に。俺はもう一度。叫ぶ。
「風よ!盟約に答えよ!」」
真っ白に輝く魔方陣が、眼前に展開され、煌く。右手には杖。
さあ!



33.夜明け前の群青








20080421/