ずっとここにいてくれてもかまわなかった。
そこまで考えて、ばかばかしくなって首を振る。違う。馬鹿だ。本当は君に、ずっとここにいて欲しかった。それからそれから、さっさとかえって欲しかった。だってそうだ。ここは君の時代じゃない、場所じゃないもの。
くすんだ金の、やわらかそうな髪。
小さな美鶴くん。
あの子がいとおしい。だってあの子は、自分じゃ気づいてなかったんだろうけど、まるで迷子の目をしてた。冷静だって賢くたって、君の目を覗くといつも底にあるのは迷子の悲しみだ。家へ帰りたい帰りたい帰りたいよう。そう言って泣いていた。
その目を知ってる。
お誕生日の日だったんだって。誰かに聞いた。彼が迷子になった日は。
私もいつかそんな目を持っていた。そうしてその底で揺らぐ悲しいの形は、たったひとことで消失するものなのだと、もはや私は随分ながい間知っていたのだ。
『誰があの子を引き取るって言うんです?』
『うちにはまだ小さい子がいるし…』
『うちだって無理ですよ、いくら従兄弟の子だって…あんなことがあったのに。』
『…じゃあ私が連れて帰ろうね。』
『母さん!』
『しょーがないじゃないか。私しかいないんだろう?なら話は決まったね、あの子は私が連れて帰るよ。』
『おいで、ちゃん。』
『しょーがない子だねぇ、泣いてるのかい?』
『ほら、帰るよ。ちゃん。ばぁちゃんと帰ろう。』
差し出されたばあちゃんの手。私は美鶴くんの、"ばあちゃん"役になりたかったのかもしれない。
家へ連れて帰ってあげたかった。
それがダメなら家になってやりたかったのだ。
だってそうでしょう?迷子でひとりぼっちの、泣いてる子供を見つけたら、お家へ連れて行ってやらなけりゃ。お父さんとお母さんを探してやらなけりゃ。そう思うのって普通の、当たり前のことだ。
私だって知っていた。美鶴くんの帰るお家は、もう他にある。ただあの子が、それに気づいていないものだから、もどかしくって、少し、すこぉしかまってやりたくなった。…あの子の気が済むまで。
(でもそれもあるけどやっぱり。)
私は思う。そう、私は美鶴くんに私を見たのだ。
「…帰ろう。」
長い石段を降りる。
結局裸足で、随分歩く羽目になるだろう。恥かしいなあ。少し笑ってしまう。緩やかな傾斜を挟む森の影では蜩がないている。ささやくような鈴に似た音は、なぜかなひどくとても胸をしめつける。
そっとつないでいたはずの手を見た。
もうあの手がないことにどうしようもなく気づいてもっとせつなくなった。
思わず石段の真ん中あたりで座り込んだ。真夏のピークも去ったというのに、どうしてこんなに落ち着かないような気がするんだろう。もう秋なのに。ほら、羊雲。あれを渡ってあの子は帰った。
膝をかかえてゆるゆると額を埋める。背中に日があたってじりじりとした。あの子はいないんだよ、少し呟いてみる。
「もういない。」
その通りだ。 君はどこへ行ったかな。
優しい気持ちがじわりと悲しいの真ん中あたりににじんだ。
「…ちゃんと帰れた?」
君の帰るところ、君の帰りたかったところ。わかったのかな気づいたのかな見つけられたかな。君はどこに行ったかな。
噫と息を吐く。
大丈夫、君のおばさんも、それから三谷くんもいる。もちろん失ったものの代わりにはならないだろう。人は誰もが無二だから。でも、それでも。大丈夫、彼らはおかえりって言ってくれるよ、君の場所になってくれる。
「ちゃんと、「帰ったよ。」
被さった声は知らないはずなのに、ああどうしてこんなに優しくって。
34.目蓋閉じて浮かべているよ
20080423/