は顔を上げた。
そのまん前に、光を背にして、人が立っている。
石段の三段ほど下、真正面。それでも彼女は見上げなくてはならなかった。すらりと高い背、真っ黒なシャツから生えている腕はしっかりとしている。視線をたどっていくと、その大きな手のひらに、それを持って歩いてきたんだろうかと思うと、少し笑えてしまう――真っ白なかわいらしいサンダルを持っている。
頭の中が空っぽで真っ白だ。
なぜ?なぜ?なにも考えつかない。その空洞を埋めるように、蝉がなく。夏が終わると知りながら。
だからの口から勝手に出た言葉はとっさで無意識だった。
「…みつるくん?」
「…そうだよ。」
囁きはよく聞こえた。の知らない声だ。
少しその目がからかうように細められた。背の高い彼の髪がそおっと風に揺れる。くすんだ金の髪。
サンダルが座り込んだ足元に、ちょっと投げ出すようにして置かれた。
持ってくる、って言っただろ?って、少し憮然とした表情で彼が言う。
恥かしがるときの癖。変わっていない。
真っ白な靴と彼とを、呆けたように交互に見るに、彼は少し息を吐いた。
「さん。俺は随分待たされた。知らなかっただろ?」
茫然と目を見開いた先で今度こそ彼の目がしてやったりと嬉しそうに笑う。
「あんたの大学2年生の夏が終わるまで、本当に俺は長いこと、随分待ったんだ。」
彼は一歩二歩と石段を登る。そうして少し見下ろして、そっと膝を折る。秋の空に日は真夏のように高く羊雲は跳ねて踊る。夏を送る蝉がないてる。
彼がの両膝に置かれていた手をとった。薄い手のひら、って少し呟いて罰が悪そうに笑う。乾いて大きな、手のひらだった。手の甲に白く血管が浮いている。
先ほどまで手のひらの中にあった小さな子供の手のひらを思い出してはぽかんと彼を見つめ直した。
優しそうな目玉が、を見ている。
「ねぇ、だから」
彼が言う。
猫みたいに少し目を細めて、肩をすくめて片方の眉を下げて。
って呼んでもいいのかな。囁くような小さな声は、優しい。だってそうだろう?君はもう、
「ずっと未来の女の人じゃなくて、」
つられても少し笑った。
ずっとずっと、あなたに会いたかった。
ずっとずっと、君を待っていた。
どちらともなくお互い、ふふ、と笑った。はへにゃって力が抜けたみたいに。彼は少し、困った風にはにかんで。
気持ちのいい風が、するりと笑って頬を撫でていった。
近くで顔を見合わせて、ふたりは微笑む。胸いっぱいの微笑だ。優しい秋がくる。
彼はもう一度、小さく歯を見せて笑った。
「ただいま、さん。」
「…おかえり、美鶴くん。」
の目からさっきの涙の名残が、今度は違うまんまるな色と形をしてころんと落ちた。それに美鶴は、酷く慌ててる。大きな手のひらが、こわごわほっぺを撫でた。がおかしそうに肩をすくめる。彼は少し、すねたみたいに、靴履かないの?って尋ねた。
身を捩ってくすくすって風が笑うよ。その行く先にあるのは?
噫ほら、見える?羊雲。
迷子の道しるべ。
帰ろう、いつか来た道。
カミングホーム。
35.カミング・ホーム
20080423/