いつの間にか、美鶴は暗い洞窟の中に立っていた。
見覚えがある。松明の明かりが、ゆらゆらと不気味に伸び縮みしている。彼は円形の、広場のようなところに立っており、不気味な十二体の彫像が、周りを取り囲んでいる。そうして四方にはそれぞれ、四体の巨きな像が、最後の審判の天使たちのように、厳めしく立っていた。
彼にはここが、どこなのか、すぐにわかった。お試しの洞窟。彼は前にも一度、ここに来たことがあったのだ。
地面を突き抜けて、空を落っこちて、そうしてこの、地の底へ降りてきた。いつの間にかその手に戻っていた杖を握って、彼は声を出すために乾いた唇を一度少ししめらせた。
「地界を統べる十二神よ!ヴィジョンと女神を守る四神よ!もう一度、俺にチャンスを与えてくれ!」
滑るように、ヴィジョンの古い神々を讃える言葉が出た。魔導師であった頃、彼は知りもしないことを知っていたし、使えない呪文だって使えた。その感覚が、僅かだが戻っている。
十六体の彫像は、それこそ石のように冷たく、沈黙している。
松明の弾ける音が、大きく響く。
「もう一度。…もう一度だけ!」
その声は高い天井にうわん、とこだまして、消えた。その残響がすっかり消え去った頃に、酷く不気味でひび割れた、意地の悪い笑い声が響いた。
蛙が哂っている。
それに吊られるように、像たちが次々に笑い始めた。四神の像だけが、直立したまま、沈黙を保っていた。
美鶴は耳元まで赤くなるような心地がしたが、胸の底が、サアッと冷えていった。
「哂うな!」
叫んだミツルをぐるりと十二支の石像が取り囲んで歌う。
『再びはない。』
『再びはない。』
『再びはありえない。』
羊が大きな口を開けて、さげすむように哂った。
『過ちは取り消すことはできない。』
『流れた水は戻らない。』
『払った時間は返らない。』
『ミツル、』『敗北者よ。』
『魔導師、』『命奪いし者よ。』
『咎人、』『殺戮者よ。』
『過去の幻影よ、』
『滅びし者よ、』
『なぜここにいる?』
『なぜそこにいる?』
それは彼自身一番の疑問でもあった。なぜ、ここにいるのだろう。
与えてくれた人がいた。帰る道を示してくれた人が。赦してくれた人が。その人の元は心地良かったけれど、その人は美鶴に帰れと言った。だから、だから、なぜかは知らない。ここへ彼は帰ってきたのだった。
「俺は、…俺はつぐないたいんだ!」
『償い?その意味も知らぬ者よ。』
『お前は本当に、罪だと思っているのか?』
『お前の掃った命の数を教えてやろうか。』
『お前はなにひとつ、犯してはいないのではないのか?』
『虫と草木に至るまで。』
『お前は貫いたのではないのか?』
『全て残らず数えてやろうか?』
『罪だと、咎だと、お前は言う。』
『全てその名を告げてやろうか?』
『誰がそれを決める?誰がそれを裁く?』
『すべてその愛するものの名を教えてやろうか?』
『お前は何を望んだのだ?』
『魔導師よ、』
『希求者よ、』
『敗れし者、』
『お前は誰だ?』
『お前に二度はない。』
『全てのものに二度はない。』
『一度だけ。』
『一度だけ。』
『その生も死も。』
『正しさですらも。』
『ただ一度きり。』
『覆すのは女神のみ。』
『女神の加護勝ち取りたる者のみ。』
『敗北者よ。』『それがお前の名。』
『失われし者。』『それがお前の身体。』
『殺戮者よ、』『それはお前の傲慢。』
『救済者よ、』『お前が掬おうとしたものはなんだ?』
『死者よ、』『墓場へ戻れ。』
重なって、幾つ者声が響く。罪だ、罰だと糾弾する声。なにが間違いなのかと擁護する、甘い声。
しかしどれも、彼を見下して笑っていた。
すべての声が、ひとつにかぶさる。
『蘇りなどありえない。』
それは一際、暗い洞窟に残響を残した。
「俺は、」
『負けたのだ。』
「でも生きてる。」
『その迷い深き魂死界すら受け入れぬか。』
『寄る辺なき者。』
『漂泊者よ。』
『月の王、地獄の君すらお前を見放したか。』
『カインすら呆れ果てたか。』
「生きてる。」
『そうだ、しかしそれは最高の咎、死ぬことすら許されぬか、罪人。』
『そうだ、そしてそれは最大の恩情、生きること望まれたか、子羊。』
「 、」
言葉が出なかった。自分のしたこと、正しくもなく、でも間違いじゃない。彼は確かに生きた。しかし、それでも、胸につかえるものがあった。後悔ばかりが残った。だから、彼は、戻ってきたのだ。
殺したことは、罪ではなかった。いいや罪だ。誰もが言う。だが違うのだ。彼の罪、彼の罪は。
「… 俺は、俺は アヤをその理由になんてしちゃいけなかった。」
その声は冷たい岩の隙間に染みるように小さく響いた。
「俺はアヤを、決してそんな、誰かを傷つける理由にしちゃいけなかったんだ!」
アヤのため、アヤのためと言って、たくさん奪って、傷つけた。だから、それが、罪だったのだ。彼は言う。確信する。それが背負うべき罰であると。
静寂が、洞窟の中で、もったいぶって唸る。
『敗北者よ、』『お前はやり遂げるのか?』
『罪人よ、』『お前は背負うのか?』
『咎負う者よ、』『お前は見るのか?』『自身の咎を。』
『その目を潰すだろう』『その腑を焼くだろう』『その心臓を凍らせるだろう』『その身を千に刻むだろう』
『それでも』
『それでも、』
『なおお前は認めるか?』
「…俺は、あやまりたい!」
静寂。
初めて四神が、口を開いた。
『贖 罪 者 よ 。』
『その罪そして再び死ね。』
『潜れこの門、聳えるは地獄の門ぞ。』
『死して再びなお滅せよ。』
十二神が、歌う。
『償え』
『贖え』
『請い』
『願い』
『祈れ』
『そして懺悔しろ』
『さもなくば死すら与えられん』
『或いは永劫続く罪の道をゆけ。』
『ゆけ。』
黒々と渦巻く光の中一歩踏み出す。暗い水のような空気の中、透明に透き通った女性が見えた。水のよう。冷たく澄んで形を捉えることはできない。
その口端が少し微笑んだ。
ミツルははっとする。誰か。誰かにとてもよく似ていた。
その指先が闇の先を指した。
静かに頷くとミツルは歩を進める。
光は少しも見えない。しかしその足取りは確固としていた。敗走者でも逃亡者でもなかった。
『ゆくのですね。』
多分女神はこういった。
ミツルにはその声は聞こえなかった。だって彼には、その声を聞く資格がないから。
――みつるくん。
一瞬あの人の声が聞こえた気がした。
ミツルは振り返る。今度こそ涙が一粒コロリと転がった。
女神はじっとミツルをその透明な眼差しで見ていた。冷たいともとれるその形のない瞳で。
『 』
女神が何事か口走る。しかしミツルには聞こえない。必要もなかった。
ミツルはただ抱いていた。美鶴くん、そう微笑む声を。
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