黒い扉を抜けた。はっと気がつくと、ミツルは平原の真ん中にポツンと立っていた。
風がさやさや鳴る。ざわざわ鳴るのは草の海だ。芽に染み入るような緑の草原に、彼は立っていた。見上げれば空は青く、高い。鳥の影が、草原を横切っていった。重たいローブが風を孕んでバタリと鳴った。
ミツルはその手に杖を持っていた。
空から落っこちてきたときにはその手にあったのに、お試しの洞窟ではいつの間にか消えてしまった。以前とは形が少し違う。玉を掴む爪のような形をしていた先端が、丸く、円を構成している。その円の中心に、どういう仕掛けか、透明な玉が、青い光を放って浮遊している。以前には存在した、5つの宝玉を収める穴はどこにも見当たらず、乾いて湿った、白樺のような質感が手に優しかった。
「風よ、」
少しささやくような調子で呼んでみる。さやりと風は一筋、頬を撫でた。
噫魔術が使える。
それは彼に安堵ともつかないため息をつかせる。
ミツルは以前は、風と水と氷と、それらの元素を操るのを得意としていた。きっと今も、それは変わらないと思う。なぜならそれらは彼に近かったからだ。炎。彼はそれを持て余した。あまりに激しく、あまりに強い。彼は今は、炎の魔術を恐ろしいと思う。彼がいくつも奪った、その手段とした炎。それが今度は、自らを嘗め尽くして燃えるのではないかと、なんとなく不安になるから。
「雨を降らせろ、…虹をかがれ。」
少し囁いてみる。風はすぐに答えてさらさらと小さな雨粒をこぼした。ほんの一瞬の天気雨。虹がうっすらと、青い空に滲んだ。緑の草原と青い空と天気雨と虹。あの人が見たらどんなにか喜んで笑うだろう。美鶴くんすごい!すごいねえ!そう言って目を細めて顔中で笑うところが想像できて、ミツルはなんともいえない気持ちになる。
虹がゆっくりと薄れていって、彼はそれに背を向けて草原を突っ切っていった。少し先に道が見える。どこか町へ続いているのだろう。なんとなく、エア・ライダーの呪文は使いたくなかった。歩いていこう、なんとなくそう思う。
にぎやかな町だった。小さな町だが、立派な市が出ており、繁盛しているようだ。半日も歩かない内に、ミツルは小さな市場町に着いていた。
賑やかにたくさんの獣人たちが行き交っている。背の高いもの、低いもの。所々に人間が混ざり、やかましい楽しげな喧騒だ。客を呼び止める声、他愛ないお喋り。鳥の巣に放り込まれた気分。
「そこの魔導師さん覗いてっておくれ!」
「安いよ!クコの実が今ならなんとたったの300テムだ!」
「布地はいかが!帝国産の毛織物だ!軽くて丈夫、旅にはぴったりだよ!」
狭い道の左右に押し込むように並んだ店先からぽんぽん声が飛ぶ。ミツルの杖を見れば、彼が魔導師であるのは一目瞭然で、魔術に関係する店から飛ぶ客寄せの声はとても熱心だ。いかにも興味がないといった顔をして、そっぽを向いて通り過ぎようとしたミツルの脳裏に、ふと脳天気な知り合いふたりの顔が浮かんだ。彼らならきっといちいち物珍しそうに店を覗きながら歩くんだろう。
これ見よがしにため息を吐いて、ノロノロと店の前へ歩く。少し薄暗い店の中では、壁にかけられた怪しげな文様がうっすらと光を放っていた。他にも不気味な人形やら使えそうもない捻くれまくった剣だとか。ざっと見回して魔力を感じるものがないことを確認する。
「どうだいどれも一級品だよ!」
(…馬鹿言うな。)
店主のきらきらとした瞳にその言葉は危うく飲み込んだ。ただその顔には思い切りその考えが滲んでいたんだろう。自分ではポーカーフェイスが得意だと思っていたが、どうも違うらしい。あちらにいたときにはそれでよくあの人に笑われたものだもの。
「ひやかしなら帰っとくれ!」
「なっ!」
なにかを言う前にポオンと店から放り出された。自分から呼び込んでおいてせっかく見てやったのにその態度はなんだ。振り返るとシャッと店のカーテンを引かれた。ふっざけんな!ブツブツ呟きながらミツルは往来を歩いた。
あああの馬鹿の真似をちょっとしてみただけでこれだ。あいつならば「おばさん!これ!なんなの!」とか言ってあの店主を満足させたのだろうか。馬鹿馬鹿しい。そうしたいとはこれっぽっちも思わないが、やはりなんだか癪に障る。
だからミツルは気がつかなかった。自らを物珍しそうに見つめる二つの目玉に。
「おや、魔導師だ…珍しいな、こんな田舎街に…。しかもあんなに若い。…旅人か?」
深い紫のフードの下で唇がニッと弧を描く。
「それにしてもしけた面しちゃって。」
食堂でフードの人物は肩肘をついたままニヤニヤ笑う。そのマゼンタの眼差しの先にはミツルだ。食堂の中はひんやりと薄暗く、食事のにおいが充満している。往来の光ははっきりとしたコントラストで、砂色の道を少し背中を丸めて不機嫌そうに歩くミツルの姿はよく目立った。その杖の先でやさしく円を描く不思議な光。それが取り囲む球。
「…みーっけ。」
店主、勘定だ。そう言ったフードの人物の声はうきうきと弾んで不敵に楽しそうだった。
ミツルはそんなことは知りもしないでいらいらと歩いた。花売りの小さな子供が邪魔邪魔!と笑いながら駆け抜けていって、ローブに少し足をとられる。かといって転びもしなかった彼は、ふと、なんとなく空を見上げた。露天の色とりどりの屋根の隙間に見える空。真っ青で、ポカンとしている。
それを見上げてなんとなく噫そうかと思った。ヴィジョン、この世界のこと。真っ青な空に浮かぶ雲は七月の形をしてる。夏休みの空だ。夏休みの世界。
ここはそういう世界なんだろうか。
(ヴィジョンってなんなんだ?)
前の冒険では必死すぎて思いもよらなかったことを考える。彼の杖に宝玉を収める穴はなく、おそらく玉に出会ったとしても、彼の杖についたそれが新たな力を得ることはないだろう。。彼は厳密にはきっと、旅人ではないのだ。石像たちが歌ったではないか。二度はない。贖罪者よ。そう、彼は旅人ではない。贖罪者だ。自ら望んで、自らを裁き、自ら求め、自ら名乗って、自ら選んだ。
見上げた先の入道雲は、あんまりあちらで眺めたものに似ていてミツルは少し、
(俺は……、)
「うわっ!」
突然紫色がものづごいスピードで彼の真横をすり抜けていった。驚いて飛び退ると、その人物が笑って振り返る。
「悪いね少年急いでるんだ!」
わはは!
黒い髪後ろで束ねて揺らして。深い紫のマント。腰には剣。人間…それは現世での言い方で、アンカ族らしかった。高い背は少し目立つ。女だ。真っ赤な宝石を首にかけてた。焼けた肌。アラビアンナイトに出てきそうな格好だと彼は思った。金細工の腕輪。しなやかに長い手足がのびのび動く。
騒がしい嵐のように遠ざかっていって、あっと言う間に人ごみに紛れて見えなくなる。
「…なんだったんだあいつ?」
首を傾げてミツルが歩き出そうと―できなかった。誰かにローブのフードを思いっきり引っ張られたのだ。グエ、と蛙が潰れたような声が出た。
「なっ、なにするんだ!」
「それはこっちの台詞だよ!」
どーんとミツルの前に立ちはだかるおばちゃん。すごい迫力で、こちらは獣人だ。牛に似た耳がパタパタと鳴る。どうしてこんな乱暴に呼び止められたのかもなんだか怒っている様子なのもわからなくて、ミツルは目をぱちくりさせた。
彼女は左手を腰に当て、右手をミツルに向かって突き出す。
「お!代!」
「ハァ?」
「ハァ?じゃないよさっきの女剣士!あんたの知り合いだろ?6800テムだよ!」
「は?」
悪いね少年!そう言ったときのニヤリという顔がふと思い出された。ニヤニヤっていう、なんだかよからぬことをたくらんでいるような笑い方。
「食事代だよ!あんたにツケとけって!」
「ふっ!!」
わはは!という声が聞こえた気がしてミツルは往来で声を張り上げる。
「ざけんなあの馬鹿野郎―――!!」
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