もちろん今しがた幻界を訪れたばかりのミツルが、通貨を持っているはずがなかった。
 あの女とは何の関係もないのだ言いがかりだ無銭飲食だ俺にかまう時間があるならあの女を追っかけてってとっつかまえるべきだ。最後の意見はミツル自身口にしてから馬鹿馬鹿しいと思った。女がもうこの辺り、走って行ってとっ捕まえることのできる距離で私はここです捕まえてください、なんて暢気で間抜けなことをしているはずがなかった。
 このままでは埒が明かない。
 往来でそんな言い争いを始めたものだから、人もだんだん周囲に集まってきた。ミツルはいらいらと舌打ちをする。ああやっぱり関わったっていいことなんぞひとつもない。なんて馬鹿なやつらなんだ、なんて―――。
 そこまで考えて、止める。無性に虚しかった。たぶんきっとこの往来の中に、自分ほど馬鹿なことをやらかした人間はいないだろう。ふうとため息をついて、もう一度口を開く。
「本当に俺はあの女なんて知らない。」
 6800テムだなんていったいどれだけの量を一人で平らげたと言うのだろう。そんな大食いの女に知り合いは――、と言いかけてやはりミツルは口をつぐんだ。
 いた。ひとり、いる。
 おいしいねえ美鶴くん。それだけ食べてなんであんなにあの人は細かったんだろう。そういえばさっきの女もすらりとしていた。かく言う彼の伯母が、食後にケーキを"デザート"と称してペロリと平らげるのを思い出す。女性の胃袋とは、謎だ。
 それきり口を噤んだミツルをどう思ったのか、食堂の女将がその腰に手を当ててがなる。
「知り合いじゃない証拠なんてないじゃないか!あるならみせとくれ!」
 それにミツルは、ハンと例のお得意な、人を小ばかにした表情を浮かべる。
「知り合いだって証拠もないぜ?」
 子供じみた返答だたはわかっていたが、売り言葉に買い言葉だ。なんだなんだと群がる野次馬も、いい加減にじれったい。見慣れない魔導師風情の子供に、食堂の女将。二人を中心に出来上がった人垣は、往来を完全にせき止めている。

「なにを道の真ん中で騒いでるんだ!どけ!どけ!」

 ハイランダーだ!と言う声が人垣の外からパッとあがって、人垣がぼろぼろと崩れる。それでも人々は興味津々といった顔を隠そうとはしないで、騒ぎを聞きつけてやってきたハイランダーに道を開けただけでまだそのあたりに留まっていた。
「ちょうどいいところにきたよ!」
 と女将は声を上げて、ミツルはますますいやそうな顔をする。ハイランダーと呼ばれるやつらに、あまりいい思い出がない。友人の腕にぶら下がっていたのと同じ、美しい真紅の腕輪をその獣人の腕に認めると、ミツルはげんなりとした気分になった。
「往来でなにをしているんだ!通行妨害と営業妨害でしょっぴくぞ!」
「文句ならこいつに言っとくれ!」
 そう言って指差されたミツルに、さっとハイランダーの目が行く。深い紫色の目をした、黒豹に似た獣人だった。広い肩幅がなんとも言えずいかめしい。赤いトンファーをその腕につけている。じっとその目に凝視されて、それでもミツルはたじろぎもしなかった。スッと背筋を伸ばして、その視線を真っ向から受け止めてみせる。

「とんだ言いがかりだ。なんとか言ってくれないか、ハイランダーさん。俺は旅の途中だし、先を急いでる。」
 本当は少し小銭を稼いでこの町に一泊くらいしていこうと思っていた。がこんな騒動に巻き込まれてはそうもいかない。そうなれば早いところ次の町へ行きたかった。次の町へ行ってどうにかなるわけではない。ただ面倒に巻き込まれるのはごめんだ。
 苛々しているのも手伝って、ミツルの態度はかなり高圧的だった。その少年らしからぬ鋭い視線にも、しかしそのハイランダーは静かに見つめ返すだけで、そっと女将のほうを向き直った。
「事情は詰め所の方で聞こう。とりあえずここじゃ通行の邪魔だ。ほら、あんたたちも散った散った!」
 頭が周囲の人垣からひとつ分も優に飛び出したこの大男がそう言って人々にむかって追い払う仕草をすると、どやどや言いながらも人垣は崩れていった。やがてまた人の波は今まで通りに流れ始め、何事もなかったようになる。ただミツルと女将とそのハイランダーとだけ、流れの中の小石みたいに、そこに立ったままだった。
「ほら、あんたたちも睨み合ってないできてくれないか。」
 フン!とそっぽを向いてブツブツ文句を言いながら女将が店の表に、準備中、の札を掲げる。無銭飲食に店を空ける、とんだ大損だよ!そう肩を怒らせる彼女の尻尾が、ブンブンと唸る。時間がかかるだろうな、と考えてミツルはますますげんなりした。あんたもだ、と紫の目玉に見下ろされてますます機嫌は下がる。
「わかってるよ。」
 自分の腕を掴もうとした毛むくじゃらの手を払いのけながら、ミツルはさっさと歩き出す。
「別に逃げたりしない。俺は無実で、無関係なんだからな。」
 その台詞に、黒豹の男が、その紫の目を少しきょとんと見開いたように見えた。
「まあそちらの言い分も詰め所で聞こう。」
 なんだか馬鹿にされたような子ども扱いされたような気がして、ミツルはむっと唇を横に結ぶ。三人はばらばらに並んで歩きながら、それぞれこれからどうしたものかと怒ったりため息ついたり苛々したりしている。だからもちろん誰も、その騒動の原因がその後姿を見送って手をヒラヒラ振っているなんて考えもしなかったのだった。



02.てのひらてのひら
20080902