彼の名はリュカという。
本名はリュカビュエーヌというが、それは女の名だった。いいでしょう、お母さんずうっと女の子が欲しかったんだもの、だから名前だけでも、と思って…でもその分男の子らしいこと、たくさんさせてあげてるでしょ、ね?というのが彼の母の言い分だ。彼はもうずいぶん長いこと、その屈強な体つきに不釣合いな真名を使わずにリュカと名乗っていた。彼は南大陸の小さな市場町で、ハイランダーをしている。彼は今、まさにその職務を全うしており、同時にいささか困り果ててもいた。
彼の目の前で、ガッチリと睨み合いテーブルを挟んで向かい合った店主と少年。ふたりはもう日も中天に昇りきったというのに、びくともしなかった。かれこれ2時間ほど、にらみ合っている。
「だから違うって言ってるだろ!」
いくらなんでも限界だ。リュカは立ってふたりの口論を静観していたが(正直口をはさむ機会を見失った)、それももう無理だということがわかる。もう何度目かもわからない応答に、ついには店主に比べて冷静だった少年までもが苛立ちも露わに声のトーンを上げた。
「嘘つくんじゃないよ!」
この金切り声ももういったい何度目だろう。かすれもしないその頑丈な声帯に、いっそささやかな嫌味を込めて、拍手でもおくるべきだろうか。リュカも、面には見せないがだいぶんこの平行線の喧嘩に辟易していた。腕を組み、少しばかりその口端をひきつらせて(ピアノ線のようなヒゲがピクピクと動くのでわかる)、ようやく口を挟んだ。
「…当人もこう言っている。嘘をついている様子もない。子供相手にやめてはどうだ、店主。」
「冗談じゃないよ!」
店主がさっと彼を振り返る。この応答も、もう4度目にはなるだろう。
「こっちは6800テムも損してるんだよ!子供だからって盗人を見逃すってぇのかい!いつからそんな腑抜けになったんだいハイランダーってのはさ!」
大音量で彼女ががなるとなりで、ぼそりと少年がが呟いたのを、アンカ族よりずっと優れた聴覚を持つ彼の耳は器用に捕らえた。
「…子供扱いかよ。」
リュカがそれを聞き取ったことに気づいたのだろう。しかし少年は特にこれと言って悪びれる様子もなく、飄々と彼を見返して見せた。お前庇ってもらっておいてそれはないだろう。それとこれとは話が別だ。視線だけでそう会話して、ふたりはお互い違う種類のため息を吐く。まだ店主はなにか騒いでいる。
「こいつの仲間が食い逃げしたんだよ!」
「仲間でもなければ知り合いでもない。…アンカ族だからって誰でも知り合いにされちゃ身が持たないな。」
炎のようにカッカと怒った店主に対して、少年――魔導士と言ったほうがいいのだろうか、彼は氷のように冷ややかでとりつくしまもなく、それでいて怒っていた。ヒリヒリと、先ほどから少年側の毛先がなんとなく痛い。
「よしんばその女が知り合いだったとしても俺は払わないぜ。この世界に飯を奢ってやるような義理のある知り合いはいないんでね。」
どこまでも人を見下すのが得意な少年だ。いっそ感心して、リュカは少年をみおろした。この世界。その単語に彼は小さく頷いた。先ほどからこの少年に感じていた違和感が、彼の中でカチリと収まるところに収まったのだ。
「ひょっとして、"旅人"か?」
その言葉に少年も店主もぎょっとして彼を見た。よっつの目玉にまじまじと見つめられて、しかし彼はじっとそのマゼンタの瞳を少年に向けたまま、その背中まで見るような静かな調子でいた。
「…、」
少年はなにかためらうように黙っている。
「馬鹿をお言いでないよ!」
その沈黙を破ったのは店主だ。
「"旅人"だからって無銭飲食は無銭飲食…!「だから、俺はあいつとは知り合いじゃない。」
少年が静かな横顔のまま、苛々と言葉を発した。何かをあきらめ、妥協したようにも彼には見える。
「あんたの言うとおり。俺は、…旅人だ。この世界には今しがた着いたばっかりで知り合いを作る暇なんてない。…そもそもこの世界の通貨だってもってないんだ。」
それに店主は、なおも言い募る。
「ならあんたが旅人だって証拠をみせとくれよ!!」
少年は、少し、考えをめぐらせているようだった。やがてごぞごそとローブの中をまさぐって、彼はきょとりと目を開いた。その様子をリュカは静かに見つめていた。
「…向こうの世界の通貨だ。…円と言う。」
少年がそっと、なにかとても壊れ物を扱うようにローブから取り出したのは、鳥の形をした布袋だった。なんの用途かは大体わかる。財布のような、ものだろう。彼の母親はそういったかわいらしいものが好きだったから、似たようなものを見たことがあるように、リュカには思われた。同時にこのような少年が、そんなあいらしいものを持っていることを少しばかり意外に、そしてほほえましく思う。少年はヒヨコを握り締めている。だからきっと彼は、その顔を見て、リュカが静かに首を傾けたのに気づかなかったろう。リュカの目は優しい。そのアンカ族とは違う敏感な鼻で、何かを嗅ぎ取ったのかもしれなかった。彼にはなんとなく、その鳥は少年のものではないのだとわかった。誰かからの、贈り物か、預かり物か、そんな気がした。
しかし少年がその顔に年相応に見える表情を浮かべたのは一瞬で、
「ほら。」
次の瞬間には彼がジャラリと机の上にその布袋の中身をあけた。カラカラと音を立てて、銀と銅の色をした円盤が転がった。大きなリュカの手にはあまりに小さかったが、その平たく冷たい金属の円盤の細工はさらにもっともっと小さい。貴重な宝石かなにか。通貨だと少年は言ったがこんなにも凝った作りの通貨に思い当たる節はなく、ただその銀のきらめきと表面に薄く彫られた文様に感嘆するばかりだ。テムコインに一番近いのだろうが、幻界のそれはこんなにも細やかな細工はなされていない。珍しそうにそれらをつまみあげてしげしげと眺める二人を、少年は黙って見つめていた。店主が小さく、きれいだねえ、と呟く。
「この文様がきれいだよ。」
3枚ほど転がった中心に穴のあいた銀のコインを見つめて、店主がそわそわと言った。
「ここに紐を通したらいい腕飾りになるんじゃないかね、」
「さあ。」
間髪をいれずに少年が興味なさ気に相槌を打つ。それすら気にしないように、店主はそわそわと続けた。リュカは穴の開いていない銀のコインの、表面の花を見ていた。とてもきれいだ。
「あんたが旅人だって、信じてもいいよ。だから、と言ってはなんだけどさ…」
「ああ。いいよ、どうせこの世界では役に立たないんだ。…どうぞ?」
その少しこわばった声音に、リュカはコインから目を離して少年を見た。そうしてリュカは、机の下で小さく握られた少年のこぶしを見た。ひとつだってあげたくない、と言っているように見えた。
気づかないし、気づくつもりもないのだろう。何枚かコインを大事そうにハンカチに包んで、上機嫌になった店主が出て行く。少年は、静かにあまったコインを布袋に戻している。少しその横顔が、悔しさに滲んでいるように見えて、リュカはじっとそのさまを見つめた。鳥が大きく口を開けて、コインを呑みこんでいく。袋の中の赤い裏地にも、繊細に刺繍が施してあるのがチラリと見えた。(…おや?)リュカは少し、それに気づき、少年はすべて硬貨をしまい終えると、もういいだろう、と言って出て行こうとした。
「待ってくれ、」
扉を開けようとした姿勢のまま、少年が振り向いた。なんだ、あんたも欲しいのか?そう言ってすこし、挑むような目つきで彼を見る。違う、と否定しようと、リュカは口を開こうとした。そして、それは結局叶わなかった。
「ハイランダーの旦那大変だ!!」ひでふ!」
息せき切って飛び込んできたネ族の男に、扉の前に立っていた少年は見事に吹っ飛ばされたのだ。
「…で?」
そうして今、リュカの隣に立った少年の口端がピクピクとひきつっている。それはもう見事に、ひきつっている。少年の3倍も大きな体を心持ち申し訳なさそうに小さくして、リュカは耳をピクピクと動かしている。隣に立った少年の怒りを、十二分に感じ取っているのだ。
「なんでこうなるのか教えていただきたいもんだ。なあ?ハイランダーさん?」
痛烈な嫌味の込められた言い方だ。彼はその優雅な黒い尻尾を、のたりと一振りした。空は快晴で、二人は荒野に立っている。砂埃が少し目入って少し痛む。小さな目を何度か瞬いて、リュカはもう一度、少年を見下ろした。立派な杖を持ち、不機嫌の権化のように立っている少年は、名をミツルと言う。
「…リュカだ。何度も言っただろう。」
「ああ悪いね。じゃあハイランダーのリュカさん、なんで俺はこんなところにいるんだろうな?ああ?」
苛立ちのあまりだろう、少年のガラが大分悪くなっている。リュカは少し、この少年の将来が心配になる。
「仕方がないだろう。あの町に結界が壊せるほどの魔術の使い手はいない。無一文なのだろう?ちゃんと報酬も出す。」
「いつ、誰が、了承を、出しましたっけ?」
「さっきもすまないと謝った。しかしミツル少年しか頼れるものがいないのだから仕方がない。頼まれてはくれないか?」
首を傾げてリュカが言うと、少年、ミツルは思い切り顔をしかめる。
「その変な呼び方やめてくれないか。」
「ではミツル。」
それにまた、ミツル、は嫌そうに顔をしかめた。素直じゃないのに、素直なやつだ。ちぐはぐな感想を抱いて、リュカは少しだけ笑った。顔の作りがアンカ族とは違うから、ミツルには彼が笑ったことはきっとわからないだろうと思った。
ふたりの前には荒野が続いており、そのずっと先に切り立った崖が見える。ここは町の南西。町は不帰の砂漠のほとりにある。
砂漠に沿うように、連なる崖には貴重な光苔が生える。崖には苔の採掘のための、岩窟が幾つか掘られており、数日の居住にも耐えうるようになっていた。そこにどうも、ガラの悪い連中が住み着いた。苔を採りに行こうとすれば、逆に身包み剥がれる始末。おまけにその一行には、魔術師が混ざっているようで、武器を手に向かった若い連中も魔法のせいでこれっぽちも歯が立たない。
ハイランダーに話が回ってくるのはひどく当然だ。そしてその場に、魔術師が、それも旅人で、力の強い魔導士が、居合わせたことは幸運だ。ミツルを吹っ飛ばした青年に続いて、ぞくぞくと雪崩れ込んできた苔採りの村の衆たちに、彼はあっという間に囲まれて、リュカにはどうしようもない。
「その杖!もしかして魔導士か!?」
「あったまいた…ちょっとあんたいきなりなにす、「ヒョオオ!本物の魔導士だ!」
「人の話をき、「ええええ!この子旅人だか!?」
「ちょ、あんたなに勝手に人のこと話し「旅人様魔導士様どうかオラたちの村さ救ってくんろ!」
「えっ、ちょ、」
「いいってよォー!」
「これで村さ平和が戻るだな!?」
勇者様だ! ワーッショイワーッショイワーッショイ! いいもなんも言ってねぇぇぇぇ!叫ぶ少年が哀れで、でも少しおかしかった。リュカは思い返して、そして少し笑う。
「あんたさっきから何笑ってんだ。」
ムッツリとしたミツルが、下からにらみあげていた。
「わかったか?」
「気配でわかる。」
「それはすまない。」
まったく面倒くさいなんで俺がわざわざこんなこと、とブツブツ言いながら、それでもミツルは、何か苦虫を噛み潰すようなかおをして、リュカの隣に立っている。律儀なやつだ、と小さく彼は呟き、「お前はいいやつだ。」とミツルの小さな背を見下ろして言った。それにミツルが、信じられないものを見た、そんな顔でリュカを見上げる。
「では頼んだぞ。魔導士殿。」
リュカの台詞に、ミツルが口の中でやりゃあいいんだろ、と小さく呟く。風が一度、低く唸った。崖は静かに、沈黙している。
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