ゆらりゆらりと杖の先に掲げられた玉から幽かな光が漏れる。夜闇に丸い輪郭を滲ませるような光は、一定のリズムでかすか点滅しているようだ。蛍火にもにた、ささやかな光。青い色をして明滅し、揺らぐそれは、水底から望む月に似ているかもしれない。
 空は紺碧をしていた。星明かりが静かに降り積む、しんとした夜。
 群青色した樹の下に、ほろ馬車が一台。赤い火がチラチラと根本で燃えていて、フードを被った人物が座っている。濃い紫のそれは、夜闇のせいで黒く黒く見えた。その手前に、膝をかかえて座ったまま、杖を抱くように眠っている小さな影がある。もうひとつ、大きな山のような影は地面に寝そべっている。どちらの影も眠っているようで、火の番をしているのか、フードの人物はごそごそと動いている。かすかな虫の寝息すら聞こえそうな夜に、火を焚くいきものだけ、眠っていないような錯覚。
 うずくまった小さな影の抱えた杖の先端、青い光が淡く、ほんのかすか明滅している。焚き火の明かりとは、対照的な、静的なあかり。ホウ、とどこか遠くで鳥が鳴く。思わず呼吸を潜めてしまうような、静まり返った夜の中。

 フードの影が、ふと、動いた。フードの下で、黒い目玉が青い光を映して不思議に一点を見つめている。その焦げるような視線の先、そこにあるもの。不思議と張り詰めた、気味の悪い静寂。さきほどまでの清々とした静寂が、波の引くようにいなくなり、薪の爆ぜる音が広がる。不穏だ。その細い指先が、ゆっくりと、しかし確かな目的を持って伸ばされる。フードの下の影で、紫がかった赤に見える光がふたつ、青い光、それだけを映す。強靭な意志を持ってじっと目指すものを見つめる目玉の奥に、星のない真空のそのまた奥に渦巻いているであろう形のない影が見える。その手がためらう様子はなく、ただそろりそろりと、膝を抱えた人影を起こさぬようにと優しさからくるのではない後ろめたい配慮だけが伺えた。
 ふいに風が吹いて、フードが背中へと攫われた。その下に隠れていた顔が顕になり、女の顔が見える。息を潜め、表情もない、能面のような女の顔。――昼間の騒々しさを知るものなら、きっと一瞬誰だか判じかねるほどの。
 オクタムが息を詰めて手を伸ばす。もう少し。希望にも似た、かすかな明かりが、彼女の顔に指す。手を伸ばす先にあるのは少年の杖。その先の石。滑らかに丸く、青く透き通った光放つ宝玉。
 焚き火がざわ、と揺らめく。彼女の指が杖先が描く円を越えた。少年は目を覚まさない。その人差し指の先が、玉に触れるか触れないか、途端。

 火が掻き消えた。

 ざわりと空気が脈打つ。しかし夢中なのだろう、彼女は気づかず、玉をついには掴もうとその指が丸い縁にかかった。次の変化は顕著だった。風がゴウ、と巻き起こり、彼女の髪をふき払う。あ、とも言葉を発する暇もなかった。玉からバチリ、と龍が尾を一振りするような、獰猛な音がした。手を引こうとしたオクタムよりも早く、玉が青く発光し、光が炸裂した。その光は稲光のように鮮烈で凶暴な、力そのものだった。大気を裂く力。しかし彼女が洞窟で使ったものとは比べ物にならない。低く背筋を凍らせるような音を立てて玉は震えたあと、その力を解放させた。
 拒むようだった。
 玉を中心に、力の波動が広がる。バチリという嫌な音と共に人形のように、オクタムが弾き飛ばされる。稲妻というにはあまりにその衝撃は冷たく、鋭くとがった風を孕んでいた。
 我 に 触 れ る な 。
 地の底から響くような声を、彼女は地面に叩きつけられながら聞いた気がする。それらは一瞬の出来事で、短くくぐもった悲鳴の後はすっかりしんと静まりかえった。しかし少年の周りの草が、円形に薙ぎ倒されている。その直径はおよそたったの3メートルもなかったろうが、その範囲の外へ弾き出された彼女を、しばらく蹲らせ、頭を割れそうな痛みに揺さぶらせるには十二分過ぎた。
 何度か自然の風が草を揺らし、驚愕と痛みと、それからその顔に浮かぶその表情はなんだろう。憤怒?後悔?羞恥?ぜつぼう?どれともつかない、まぜこぜの顔。女が肘をついて、なんとか上半身を持ち上げて少年を見た。彼女はその少年の名を知っている。ミツル。
 ミツルは眠ってはいなかった。
 彼女を弾き飛ばす前と寸分変わらぬ体勢のまま、顔だけ持ち上げてそちらを見ている。
 オクタムはかすかにぞっとした。なんと感情のない顔で、このこどもは自らを見るのか。
 その表情は彼がずっと起きていたことを彼女に悟らせるには十分だった。
「…起きてたのかい。」
「ああ。」
 呻くように低く、自嘲するように小さく、忌々しそうに苦く、吐き捨てられた言葉に、淡々とミツルは言葉を返した。星が頭上でまたたき、遠くで虫の寝息。夜に静寂が、帰ってきたにも関わらず二人の間には未だ、彼女の目の奥にあった暗黒が横たわっていた。しばらくのあいだ沈黙が場を支配し、先ほどの大きな風と音と光に気づかなかったのだろうか、馬車の中からも少し離れたところに寝そべる大男からも、すこやかな(というにはいささかもったいない大きな)寝息が聞こえている。
「痛むか。」
 ふいにミツルが告げた。抱えたままの膝。ミツルの目が夜にぽっかり浮かぶ月の様に不気味な静けさを湛えて、金に光るのを打ち倒されたまま彼女は見た。
「…あそこまでする気はなかった。俺が魔法を使う前に、玉が勝手に拒んだんだ。」
 かすかに聞いた気のする声を思い出し、無意識に額に脂汗が滲んだ――彼女の剣に納まっているふたつの玉。勝利を渇望し、闘争を望む劫火を司る猛々しい老人と、神々の道行き・神秘と凶暴と力である雷を司る青白い頬をした壮絶な青年と、彼らの宿る玉――それとはあまりに、かけ離れて思えた。この子供の持つ玉はあまりに強く、あまりに凶暴で、あまりに冷たい。光が収まった今も、その中で怒りが、とぐろを巻いて自らに熱い息を吐いているような、錯覚をする。
 同時に彼女は、この少年の正体に背筋が凍るのを感じた。お前は誰だ。その目を受けて、ミツルの瞳は揺らぐこともなく、わらう。
「悪いけどこれをやるわけにはいかない。」
 悪いけど、と少年は言った。願いを叶えたくって必死な、かわいそうなあんたには悪いけれど。そういうニュアンスがあった。彼女は胃の底が熱く重たくなるのを感じた。もしその嘲りともとれる響きの中に、少年自身をも見下す一種特有の気配を感じとらなければ、多分めちゃくちゃに怒鳴り倒していただろう事は容易に予想がついた。だからオクタムは、ミツルをあらためて眺める。子供の癖に。悔し紛れにも似た言葉が浮かぶ。ああこどものくせになんて目をする。まるでなにもかも諦めきったよう。まるでなにもかも見知ったような。ぜつぼうを知っているよとでも、ささやきかけてきそうなその優しくもなんともない無表情。
「最初っからわかってたよ。あんたの狙いがこの玉だってことくらい。」
 お見通しだったと言う訳か。忌々しげにオクタムが立ち上がり、ミツルは顔だけ動かしてその動きを追った。用もない王都についてゆくと駄々をこねたのはすべてそのためだ。それすら滑稽だと、この少年は見通していたらしい。なんとも忌々しい。腹が立つガキではないか。
「…。」
 黙りこくったままくるりと背を向けたオクタムに、ミツルがそっと囁く。
 今度は嘲るような響きはなかった。どこか静かで、とても遠い。引き止める気も見送る気もない、ひとりごとに近い響き。

「…残念だったな。俺は旅人じゃない。」

 一瞬、彼女は、その意味を判じかねて振り返った。旅人ではない?現界から訪れ、玉を持つのに?
 オクタムの視線に、やはりミツルが、子供離れした顔で笑う。
「俺は、贖罪者だよ。」
 ひみつはひそりと夜の中に落とされた。どうにもこの名を名乗るのは、はがゆくていけない。ミツルの笑みの理由を、オクタムは知らない。
「なんだい、それ。」
「…さあな。目の前の餌だけ見てて失敗した馬鹿のことだろ。」
 立ち去るのも忘れて、オクタムが黙った。ザワリと一度、大きく風が吹く。



09.真夜中の盗人
20090429