沈黙があった。その中にぽつ、とこぼされたオクタムのひとり言に、やや間を置いて、ミツルが言葉を繋ぐ。
「餌…。」
「そう、餌。あんたにだって見えてるだろ。喉から手がでるほどうまそうなご馳走がさ。」
 オクタムが黙り、ミツルが笑った。今だってもらえるのなら!心臓を掻き毟ってそう思う。今だってチャンスがあるなら。目の前にそれをぶら下げられたら。飛びつかずにいられるだろうか。ミツルは一瞬の沈黙の間に深いところまで潜っていた。自らの心の底に。そこには成就されなかった願いが、沈没船に似た様子で沈んでいる。青くて暗い水の底で、忘れ去られることもなく、ずっと。その船の名を、ミツルは決して忘れられない。
 ふと玉が淡くり、ミツルの意識を浮上させる。青い玉。氷と、いかづちと、風、それから。その玉には竜が棲んでいる。そしてミツルは、それと会話を交わしたことはないけれど、その玉の名を知っているように思った。これがなぜ、オクタムを拒絶したかも、知っているように思う。その玉は、呼吸するように、しずかに明滅を繰り返す。その明かりに横顔を照らされながら、ミツルは再び口を開いた。オクタムはじっと黙っていた。
「…俺のこれはあんたらが欲しがってるのとは違うんだろう。そして多分、俺にしか…いや、俺と同じ部類のやつにしか使えないんだと思う。だからやれない。やらない。」
 オクタムの目を見てそう言った。彼女はじっと、なにか見極めるみたいにミツルに目を凝らしている。
 再びの沈黙。
 しかしそれは、最初にあったものと同じ、清らかな夜の静けさだった。遠くで虫の声がする。どこかで眠らない鳥が鳴いている。風がそっと草葉を揺らしてどどうと遠く、過ぎてゆく。
「同じ部類…ってのはあんたのさっきいった小難しい名前のやつらことかい。」
「…ああ。そんなに何人もいるのか知らないけどな。」
 やはりオクタムも、その名にはがゆさを覚えるらしい。しばらく二人は黙って、リュカのいびきだけ、間抜けに響く。

「子供がそんなむつかしいこと言うんじゃないよ。」
 やっとオクタムの口から出たのはその言葉だった。
 予想していなかったそれに、ミツルはほんの少し、普段よりあどけなく瞬きをして、それにオクタムがこっそりほっとする。そのまま、じっとミツルの右肩の辺りに、目を凝らすようにしてオクタムがゆっくりと口を開こうとする。たどたどしくも真摯な様子は、今までと少し違った。なんとなく、これが"本当"に近いオクタムの言葉なのだろうなと、ぼんやりミツルが感じるくらいには。
「…あんた迷子だろう。」
 おんなじことを、言われたことがあった。
 ――迷子。君、迷子なんだね。
 心配いらないよと背をなぜるような声音で。ほっそりとした白い腕。私も昔、迷子だったよ、と歌うような囁き。千年も前のことのようだ。しかしいちいちぜんぶ覚えてる。
 迷子。
 その言葉はそんなにも、自分に当てはまって他人に見えるだろうか。思わず呆気にとられて口を明けたままになったミツルに、オクタムがぎこちなくわらう。ぜんぜん似てないのに、なんとなく似ている気がした。会いたい誰かさんに。
「贖罪なんて、むつかしい単語、使うんじゃないよ。子供なんだから。」
 そのままズカズカ近づくと、オクタムはミツルの頭をぐしゃぐしゃになぜたというよりかき回した。どうにもやっぱり予想していなかった展開なので、ミツルは後ろにのけぞりながらも結局思い切り撫でまくられてしまった。石の彫像のように、顔以外を動かさなかったミツルが、思い切りおしりから背中にずっこけたのを見て、オクタムが笑う。どことなく満足げに見えるところが気に障る。憮然とした顔をして、彼女を見るミツルにも、やっぱりオクタムはわらった。
「ほぉら子供だ。」
「…。」
 負けだ。怒っては、負け。負けだ。負け。負け。
 ぐっと我慢の表情で、こらえていたミツルに一度、困ったような不思議な顔で微笑すると、オクタムはさっさと背を向けてしまった。
「おい、」
 ミツルの声を無視してそのまま樹の根元にゴロリと横になる。
「おい?」
 おやすみ、とでも言うように手だけが振られた。ミツルに完璧に背を向け紫のマントにくるまって彼女は次の瞬間にはいびきをたて始める。
 静かな夜に、寝息と言うにはいささか大きな、大味の吐息、ふたつ。遠くでは小さく虫の声。耳を澄ませば、きっと星の瞬きすら静かに聞こえそうな夜なのに、まったく騒々しいったらない。馬車の中からも同じように、いびきの大合唱が聞こえてくるのだ。
「…出ていくんじゃないのかよ。…つうか寝るの…はやっ。」
 小声でつぶやいて、でもまあいいか。
 少しわらってミツルは座り直すと膝を抱えた。そのまま杖をぎゅっと抱くと、白樺の木がなぜかなすこしあたたかい。大きないびきがふたつ。まったくうるさくっておちおち眠ってられやしない。

「わざとらしいんだよ。」
 小さく小さく呟いて、ギクリと揺れる肩に笑うと、パタリと揺れた尻尾をみないうちに膝に顔を埋める。
 おやすみ、と星がわらって、結んだ形は大きな屋根の形。星の囁きが降る中で、三人は静かに眠りを迎える。おやすみ、おやすみ、と背を撫でる夜に、それぞれいつどこかの遠くの誰かさん、思い出しながら。




10.星を繋ぐ
20090504