乾いた風が、路地裏を吹き抜けた。果たしてそれがからっからに乾燥していたのは気候のためだろうか、それともその場に居合わせた、ミツルとリュカの、心境を写してのことだったかもしれない。白い歯を見せてオクタムは風とは別の意味でカラリとした笑みを見せ、その膝の上を凝視したまま、彼らは沈黙していた。しかもその沈黙は、思慮深いものだったり悲しいものだっだりするわけではない。俗に言う、呆れて物が言えない、というやつに現実逃避に理解不能というのを足して、そこに怒りのスパイスをひとふり。見事乾ききった沈黙の出来上がり。なんとも空の、青さが光る。
静かだ。
もはや、雄弁なのは風と彼女の笑顔と沈黙だけかと思われた。しかし、そう、ミツルはタフだった。悲しいかな、なにせ一番の最年少のくせして、踏んできた修羅場の数なら多分誰にも引けをとらない。自慢にもなんにもならないが、それでもそれらの経験はミツルの精神を確実に鍛えたと言っていいだろう。これだからかわいくないんだ、とはもう何回か聞いた彼女の台詞。
「今…なんつった?」
しかしやはり、さすがのミツルも今オクタムの言ってのけた台詞を確認するくらいしかできないようだ。まさか聞き間違いかと言う期待を1ミリも含まず、それでも訊ねずにいられなかったのだろう。訊ねられた本人は、悪びれもなくいっそ清清しい笑顔を浮かべて答える。
「あいつらの落とし物。」
「……で?」
「だーかーら!盗ったんじゃないってば!」
「…………で?」
「だから拾った!」
「………………で?」
その会話を聞きながら、リュカはミツルってすごいなぁ、空が青いなぁと思っていた。もう自分はつっこみたくない。家に帰りたい。今だけはリュシェンヌなんてかわいらしい女の名前を付けた母親すら恋しかった。遠い東の空にリュカが思いを飛ばしている内に、一方ミツルの中ではあらゆる感情に怒りが勝ってきたようだ。怒りは時に、脳の働きを活発化させ、覚醒させる。ミツルも今まさにその状態のようで、だんだん発する言葉が滑らかかつ複雑になってきている。
「拾ったからなんだって言うんだ?あ?つまり盗ったんだろ?」
それにしてもガラが悪い。
「え?あーまあ。いや、ほら、なんか高価そうだったから。つい。」
ついなんだ。
その言葉にミツルが、小学生の男子がするとは思えない冷たい、どこまでも見下した目でオクタムを見た。
「ガキがん!な!か!お!すんじゃないよ!」
思いっきり見下されたオクタムは、ミツルの頬をぐいぐいと引っ張る。
「はにゃへひゃほほんは!」
「聞こえないねぇ!」
言葉と共にバッと両手が離される。容赦なくひっぱられたために赤くなった頬で、ミツルが声をあげる。頭から湯気が出るのがみえるようだな、とリュカはもはや他人事のように思った。ああしかし静かにしなければあいつらが戻ってくるかもしれない。ここは袋小路。見つかれば退路はない。
「離せって言っただろ!」
しかしもはや普段怒るときは大概絶対零度のミツルが、今回は火のように怒って怒鳴っているし、オクタムの騒々しさはいつものこと。ミツルがうるさい分二割り増しで、さてどうやって鎮めたものか。
「ついっておまえなあ!馬鹿じゃないのか?馬鹿だ馬鹿だとは思ってたけどほんっと馬鹿だろ!」
「馬鹿馬鹿いうんじゃないよガキ!」
「うるさい泥棒!」
「だ!か!ら!別に盗んじゃいないよ、あいつらが落としたのを親切に拾ってやっただけであって。」
きょとりとあどけなくオクタムが笑った。気を削がれたのか、ミツルの額の怒りマークがひとつ減る。
「ならすぐに戻せよ。」
「いやだよあんな連中。」
「ハア?」
聞き返したミツルに、オクタムの目がすうっと細くなった。それにリュカも、少し目を眇める。
「落としましたよ、なんてのこのこ進んでいったらその場で切り捨てられたに決まってるじゃないか。」
今度こそオクタムの雰囲気はガラリと変わった。瞳のマゼンタが冷たく冴え渡り、先ほどまで小学生とギャアギャア言い合っていた人物と同じだとは思われない。
「…あいつら嫌アなにおいがしたよ。間違いない。」
妙に獣じみた、直感的な物言い。しかしその冷たく鋭い雰囲気とあいまって嫌に真実味を帯びる。
道化だな、とリュカは客観的に考えていた。普段はふざけるばかりのくせに、時折こうして覗くのは、冷徹とすら言える静けさ。オクタムとは何者だろうか。冷ややかな眼差しを湛えた女をじっと見ながら、リュカは思考する。旅人。旅人だ。世界を渡りそうしてなおも叶えたいと望む絶対の願いを持つ者。
「それ、返してください!」
静かになった路地裏に、高い声が急に割り込んだ。
聞き覚えのない声に思わず身を竦ませた彼らが見たのは、
「こ、ども?」
オクタムの膝を指差して見上げる、まだミツルの肩くらいまでしか背のない子供だ。顔に柔らかそうな毛が生じている。指差す手のひらの先は、ミツルのいう人間とは異なるつくりをして、爪の先が丸い。頬から生えたひげ、頭の上にひょこりと垂れた耳。非アンカ族だ。短い尻尾が威嚇するようにはたはたと振られ、まるく尖った鼻の先は、現世でいうところの子犬に似ている。 「か、返して下さい!」
ひょっとしなくても、オクタムの"拾い物"のことなのだろう。子供は同じ黒目がちな大きな目玉を見開いたまま、じっとオクタムから目を逸らさない。しかしその目玉は泣き出しそうだ、膝、震えてやがる、ミツルはじっとその子犬の少年を見つめた。ひとつか、ふたつ、年下だろうか。こわいならやめときゃいいのに。その姿はなんとなく、へっぴり腰で剣を構えてた誰かさんを連想させる。
ああ苦手なタイプだな、とミツルが誰かさん、思い出しながら頭の中で呟いている間に、オクタムは目を丸くして少年に歩み寄るとズズイと顔を近づけた。サラリとオクタムの黒髪が少年のとがった鼻の先で揺れる。結構な距離の近さに少年がうっと詰まり、オクタムがさらに距離を詰める。(…遊んでやがる。)ミツルは少年の動揺に哀れみの目を向ける。性格にすら目を瞑れば、日本人離れしたその通った鼻筋と小さな口の人は、美人なのだ。
「なぁに言ってんだい少年。」
「そ、そ、それを返…し、てください!」
「返せっつわれてもねぇ。」
私は物騒な連中からこれを拾ったわけだし、と手の先で袋をくるくると玩ぶオクタムのニヤリと言う笑い方に、今度こそミツルもリュカも、少年に哀れをかけずにいられなかった。
「…おい、オクタム。」
大人気ないぞと先に声をかけたのは流石はハイランダー、リュカだ。壁にもたれていた彼が身を起こすと、ずいぶん大きい。これにも少年は驚いて、ひっと身を縮こまらせる。確かにリュカは、ミツルに言わせれば姿かたちは豹なのに、サイズ的には熊ほどもある大男だ。子犬の彼には、いささか大きすぎるだろう。しかしリュカはなぜ彼がこわがっているのかわからないようで、どっこらしょ、と少年の前に屈むとニッと歯を見せて笑った。だからそれが怖いんだって、と言う言葉を、ミツルはなんとか飲み込んだ。
「少年、悪いが話が見えなくてな。ちゃんと説明してもらえないか?」
リュカの大きさに目をぐるぐるさせていた彼も、その笑顔が功を奏したのかはともかく、少し安心したように耳を下げると、オクタムの持つ袋をもう一度指差した。
「あのお姉さんが持ってるものは、元は俺のにいちゃんのものなんだ。」
「ほう?」
「それをあいつらが…突然やってきて盗ってったんだ…。」
ハイランダーとしては聞き捨てならない話だろう。ミツルの位置からは、リュカの尻尾がピンと張り詰めるのがよく見えた。どうやらやっかいごとに、まきこまれるだけでは飽き足りず、そのやっかいごとに手も足も出すつもりのようだ。もはや若干諦めの境地。路地を見張るのをやめて、ミツルもローブをなびかせ、少年に向かう。
「あいつら何者だ?」
ミツルの冷静な声音に、はっとしたように少年がミツルを見た。深い茶色の目玉。
「この街を裏で"ぎゅうじってる"とっても悪いやつらだよ!」
「…。」
牛耳るって単語の意味をわかってつかっているのだろうか。ミツルの沈黙をどうとったのか、少年が声を高くする。
「にいちゃんが俺らのためせっかく作ってくれたのに…!なのにあいつらがとってったんだよ!にいちゃんはそのせいで大怪我したんだ!」
「む、怪我人も出ているのか…。なぜこの街のハイランダーに通報しない?」
「うーん、それはさ、かてーのじじょーってやつ!」
どんな家庭だ…リュカのちょっぴり途方にくれたような小さなつっこみが、風に転がって乾いた路地に落ちた。
「…こいつもそのハイランダーだけど?」
ミツルの言葉に、ハッ!と耳も尻尾も真上に逆立てて、少年は初めてリュカの腕輪に気づいたようだ。しまった、と顔中に書いた少年にオクタムが豪快に笑い、ミツルとリュカはお互いなんとも微妙な表情で顔を見合わせたのだった。
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