街の屋根には色とりどりの旗が風に吹かれて鳥の羽ばたくような音と形とを投げ出している。風が強い。煉瓦の街並みは古いがよく手入れが行き届いて、外国の絵はがきに出てきそうな雰囲気だ。
風の都、ウィンダーリア。
南の連合には大小様々の国があるが、その中でも古く、高名な魔法使いを多く排出している。しかし実際には、観光以外であまり目立たない牧歌的な色を持つ小国家だ。砂漠の村はその飛び領であるというから不思議な感じだが、風の研究のために砂漠を渡る風を観測しようと幾人かの魔導師が移り住んだのがはじめらしい。それがいつの間にか、研究を継ぐ者がなかったのか、光苔の採集で生計を立てる農村に変化したわけではあるが。ともあれそこで起こった盗賊騒ぎであるのだから、そこへその騒ぎの原因を連行するのは至極最もな話しであるわけだ。美しい城壁に囲まれた門をダルババ車が潜る時も、オクタムは感動しきりだった。
「きれいだねぇ!ドイツってこんなんなのかねぇ!」
あんまりキョロキョロするので恥ずかしいくらいだ。ミツルはちょっと肩をすくめて、自分より大分年上の女をあきれた目で見上げる。一方この小さいながら華々しい王都が故郷らしいリュカは、門番から道行く通行人まで、知り合いらしく声をかけたりかけられたりと忙しい。
「ウィンダーリア!良い街ですよ…リュカさんはこちらの出身なんですね。」
「ああ。」
シンの言葉に、純粋に故郷を褒められて悪い気はしないのだろう。リュカが穏やかに頷く。思いがけず増えた旅の連れに関して、悩むのをもうリュカは止めたらしい。つい先日まで、国家逃亡者の逃亡の片棒をかついでしまうことになった展開に悩み、若干落ち込んでいた。
当のシンはあいかわらずのマイペースで、のんびりとしている。
『僕はね、死ぬことにしたんですよ。』
逃亡などせずに、素直に国に謝罪し許しを請うべきだと告げたハイランダーに、科学者は首を振ってわらった。
『え?』
『"太陽"の研究中に誤って跡形もなく消し飛んだ―――なんとか助手である彼が太陽を抑えた時には手遅れで、その太陽は空に弾け飛んでしまった―――と。以前戯れで作った閃光弾をド派手に研究所内で打ち上げてもらいました。』
これで少なくとも、太陽を失ったことを責められることも、そのことで子供たちが辛い目に合うこともない、とシンはわらう。
『だから僕は―――帰るわけにはいかないんです。』
本当は、王の前に立って、あの宝玉は本当にそれを必要としている人にあげました。そうしてそれすら言い訳で、僕はただ、あれがなんなのか、解き明かしたかっただけなのですと告げて、大人しく裁きを待てばよいのでしょう。たとえそれで首を跳ね飛ばされても、恐れることなく。そうすることこそが潔く、美しい正しい生き方であるのでしょう。
シンは少し、穏やかに複雑な顔を伏せた。
『でも僕は―――まだ死にたくない。』
格好悪かろうが無責任だろうがなんだろうが、僕はそんなに、自分の生命を潔くあきらめることなどできない。
まだ知りたい、ことが世界には満ちているのだから。
そう言って顔を上げたシンのまなざしは、確かにまっすぐで、うつくしかったのだ。
好きにしろ、とややあってつぶやき返したリュカはあきれているようでもあったし、それでも何も、それ以上言わなかった。
そういう生き方は、格好悪いのだろうか。石畳をゆくダルババ車に揺られながら、ミツルはぼんやりと考える。重い罰を受けるとわかっていて、受けに行くやつがどこにいるだろう。それでも進んでそれを受けいる者を、人は勇者だと、立派な人間だと言う。シンのことを人はどう思うのだろう。自らの罪から逃れ、死んだように見せかけてまで、生きたがった汚い人間だと言うのだろうか。
こいつは全部わかってやってるんだ、とミツルは、のんびりリュカの隣に腰かけている男を見つめて思う。
それが格好悪いことも、汚いことだということも、ずるいことだともわかっていて、シンはそれをする。それを超える願いともいえない欲求があるからという。
その行為は、いったい旅人のそれと何が違う?
少なくとも、きっとオクタムは、シンがどんな手段を使っても生きてくれて多少なりと安堵したろうと思った。自分に宝玉を渡したために、潔く罪に問われて死んでいったなど、聞いて心地の良い話ではない。いくらその玉を手に入れるために、どれだけ手を汚しても構わないと覚悟してこの世界にきたとしたって、誰だっていい気はしないと思う。
かつて自分が、そうだったように。
ミツルは少し俯いて、白い手のひらを見る。
それでも彼は、そうした。焼き払い、押し流し、突き崩し、破壊した。迷いが、葛藤がなかったかと言えば嘘だ。その心の叫びを押し殺して、それでも彼は杖を振るった。そうまでして叶えたい、願いがあった―――願いが、ある。
一度ぎゅっと手のひらを握る。
噫、ああやって取りこぼして奪い取ったものすべて、無事で帰ってくるのなら。いいやそれは嘘だ、噫、そうやって、それでもあの子がこの手の中に帰ってくるのなら。この手の中で、なくてもいい。俺がいなく、なってもいいから。
それだって嘘だ。
ミツルは生きたい。生きたかった。小さなあの子と一緒に。
誰のことも汚いなんて言えないなとミツルは思った。誰のことも、汚いなんて思えない。生きようとすることの、何が悪いだろう。生き方が大切なんだと誰かがどこかで言う。でも、シンは、いったい誰に恥じているだろう?彼は恥じたりなんてしない。いっそ潔いほど、顔を上げて、逃げると言う男。きっと弟、妹たちに、すまなさそうに、けれどもどこかあけすけの笑みで、「ごめん」と「さようなら、」それから「元気で」を告げて出てきたろう。
俺は恥じずにいられるろうか。たった一人のあの子に。
パタパタと軽い羽音が、幌のすぐ隣を掠めていく。
「ミツルくん、鳩ですよ!」
楽しそうに、シンが空を指差してミツルを振り返る。屈託のない笑い方。相変わらず、幸の薄そうな、くたびれたままの顔。眼鏡の奥の、人懐っこそうな目。
後ろから「美鶴!あの旗すごいよ!」と同じようにオクタムの声が飛んでくる。
どっちが子供だ、と彼は少しあきれてため息を吐いた。
ハイランダーに、食い逃げ女の旅人に、逃亡中の科学者に、すべて曖昧な旅人未満。変なメンバーだと今更思った。
「このまま盗賊たちを一度城に引き渡すぞ。」
「そのあとは?」
「…ハイランダーの詰所に宿を取ろう。」
タダ飯だとオクタムが歓声をあげ、シンが同じように笑う。
まったく騒々しいったらない。
けれどほんとうに、ほんのすこしだけ。
ミツルは少しだけ口の端を持ち上げてわらった。
こんな面子も悪くはない。そう、ほんのすこし、まぼろしの世界の夢のなかでくらいは。
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