濃紺のマント。スラリと高い背。
ついてきてしまった。
優れぬ表情で、大股に街を横切る青年の後ろ姿。時折見え隠れするその面差しに、ひどく見覚えがある。ワタル。三谷亘―――忘れ得ぬ名。忘れ得ぬ存在。その成長した姿がそこにあった。
現界の未来で見た時よりも、少し逞しく見えるのはその腰に佩かれた剣のためだろうか。その格好は剣士と言うには少しばかり荒々しさに欠け、長いマントの印象と相俟ってどちらかと言えば騎士に見えた。しかし鎧を纏ってはおらず、銀の胸当てだけといった軽装である。紺碧に白い縁かがりの上着。白いズボンに上着と揃いのブーツ。中流以上の貴族や騎士が着るような良い仕立て、洗練された服装だ。しかしその足は躊躇う様子もなくすいすいと下町のほうへ歩いてゆく。
ついてきてしまった。
もう一度ミツルはそう考えて、凍りついてしまいそうな気がする思考を懸命に働かせる。馬鹿だなミツル、ここは現界とは違うのに。
騒々しく陽気な町の雰囲気から、明らかに青年は浮いていた。憂いを帯びたその顔をみとめた瞬間、彼は愕然とした。そうして気がつけば、足が勝手に彼を追っていたのだ。ようやく思考回路がゆるゆると働きを再開し、自らの行為の不毛さに彼は呆れている。呆れながらも足は青年の後を器用に追って動き、彼はますます途方に暮れる。
どうしてここにワタルがいるのかとは思わなかった。幻界が彼の予想する通り、現界の反転された鏡の世界であるなら、ワタルがいることこそ当たり前だった。そのワタルの姿は成長している―――現在帝国を総べる皇帝の名からここは過去の幻界かとも予想したが―――ということは、ここは未来の幻界なのだろうか。ワタルの背格好を見るに、少なくとも自分とワタルが幻界への扉を潜ったあの日あの時から、十年は後にであるのに違いない。ではここは、十年の後の幻界なのか―――しかしたったの十年で、帝国は再建し、魔界から受けたダメージから幻界のすべては立ち直り、そうして人々はそれらのことをすっかり忘れ去ってしまえるものだろうか。
まさか他人の空似だろうか―――そう考える端からミツルの本能がそれを否定する。あれはワタルだ、三谷渉、俺があいつを、間違える、そのはずがないのだ。ワタルがやはり未来の街角で、幼いままのミツルを見つけた、その通りに。そうしてミツルが、未来の街角で、大人になったワタルに一目で気が付いたように。
追いかけてどうなる。そしてどうする?
そんなことがわかるはずがなかった。ただ気になる。気にならずにはいられない。勝ったこども、ミツルの死んだ後で、きっとすべてを得たこども。間違えなかったこども。未来の世界で驚くほどに、大きく優しい青年になって、朗らかに笑いながら彼の背を押した。
『ミツル。必ず帰れ。』
そう言った男。
そうだ、男、男の人だった。彼とは違う、大人の男の人。その時の彼の衝撃が、誰にわかるだろうか。成長したこどもが、そのままのこどもの前にいたのだ。生き生きと伸びやかに、健やかに育ったワタルの姿は、ミツルに自らが死人であると告げるようだった。死んだと思った。淡々と受け入れたはずのその事実に突然横合いから殴りつけられて、彼は非常に混乱した。永久にもはや、彼自身の時の歩みが、ワタルに追いつくことはないように思えた。
その男が目の前にいる。
彼そのものではないが彼と存在を同じくするのであろう、鏡の、幻の世界の三谷亘が。
不意に青年が、細い路地を曲がる。
慌ててその後を追おうとして、ミツルはとっさに足を縺れさせた。足元まで覆う長いローブが邪魔をする。転ぶ、と思った彼の視界いっぱいに、真っ青な夜空の色が広がった。
「…おっと、」
やわらかくて低い、聞いたことのある声だ。
「あ、」
大きな手のひらで優しく受け止められて、顔を上げた彼は今度こそ心の臓まで握りつぶされるかと思った。ワタルその人が、困ったような顔をしてミツルを見下ろしていた。
「ええと、」
未来の夏で会ったのと、少しも変わらない表情の作り方。ただ違うのは、彼が"ミツル"に気が付くことがないということだ。雑踏の中彼の名を叫んだワタルでは、これは違う。けれども幻界のワタルには違いない。そうでなければ、どうしてこんなに似ているのだろう。
つけていたことに気づかれていた。
どうやら彼の知るワタルよりも、こちらのワタルのほうが賢いらしい。
そうとっさに判断した自分の思考に、ミツルは内心舌打ちをする。何様だ、お前は。苦い顔になった彼に、"ワタル"はますます困ったように、しかし目元をハッキリと警戒の色を浮かばせながら口を開いた。「君、」
ああやはり"ミツル"を知らない。どうしてそのことに、どこか水色の思いを覚える?
「何か用かな。」
少しばかり緊張しているのか、声が固い。
男のミツルを受け止めたのとは逆の手が、さりげなく腰に佩いた剣の柄にのっていることに気づいて、ミツルは愕然と顔を上げる。見上げた先の優しげな顔立ちは、どこか硬質に、強張っている。
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