はっと目を見開いたミツルに何か感じ取ったのか、男はぱっと両手を小さく上にあげると、「すまない、」と口にした。その口調がなんとも言えずミツルには違和感バリバリで、また黙ったまま顔だけ雄弁に歪めてしまう。
「怖がらせてしまったかな…でも君は、私についてきていただろう?」
間違いだ、偶然同じ方向へ向かっていただけだ。そう言うには男の選んだルートは複雑すぎる。どこから気づかれていて、本当にミツルが自分をつけているのか、男自身も試していたに違いない。そうでなければ、いかにも上流階級の服を着た男が、うろうろと街中を回りこんな細い下町の路地裏まで、わざわざ来るだろうか。
黙ってしまったミツルを安心させるように、男は少し膝を折った。もちろんその動作は、ミツルをどうしようもなく苛立たしく、叫び出したいような気持にさせる。けれどもそのことを、もちろん男が知ることはない。
「…知り合いに似てたんだ。」
あくまで冷静になろうと努めながら、ミツルは静かに言葉を選んで話した。
「ここにいるはずがないのに、物凄く似てたから…まさかあいつかと、思って。」
嘘はついていない。そのことを確認するように、男のまっすぐな視線が、先ほどからミツルに注がれている。
やがてふう、と小さく息を吐く音がして、見上げると男の顔は幾分か和らいでいた。
「……を知っているか?」
「?」
聞いたことのない単語だ。
誰かの名前のようだが、聞き覚えがない。首を傾げたミツルの様子を見つめながら、男はやっと、口元を緩めた。そうするともっと彼の知っているワタルにそっくりで、いたたまれないような気持ちになる。
「すまない、今少し、揉め事に巻き込まれていてね…まさか君みたいな子供がとは思ったんだが、」
そこまで言って、子供と呼ばれたことにミツルが顔をしかめたのに気付いたらしい。はっと柔らかい色の目玉を泳がせた後で、「ええと、君みたいな少年が、」
とあまり内容的に変わっていないことを言う。
「追っ手かと思ったんだ。」
少しくたびれたような、それでも優しげな微笑だった。
「…追われてるのか?」
予期せず気遣わしげな声が出たことに、ミツルは内心歯噛みする。しかしその響きにますます警戒を緩めたのか、男は肩の力を抜いたようだった。
「色々あってね。でも君は違ったみたいだ。」
誤解してすまない、ともう一度、今度は小さく頭まで下げた男に、ミツルは内心さらにうろたえる。
「いや、…こっちこそ。悪かった。」
ぶっきらぼうに呟いたミツルに年長者らしく穏やかに、「そんなに似ていたのか?」
と男が笑いかける。
似てるに決まっている、だってここは、鏡の世界なんだから。
口端にうっすらと、酷薄な微笑を浮かべながらミツルは 「ああ…すごく。でも、近くで見たらそんなに似てないな。」
と口にした。嘘だ。似ている。似てるよ、すごく。未来であった姿そのままだ。あの人も、ワタルも、みんな大人になっていた世界だ。彼だけが迷い込んだ、彼だけがいない未来の姿だ。
「そうか。」
少し不思議そうに首を傾げて、男はゆっくりとミツルから一歩離れた。
「ウラトゥラ・ワイナチム。」
最初それを聞き取れずに、彼はまた怪訝な顔をした。なにかも呪文かと思った。ややこしいだろ、と男が笑って、彼は曖昧に首を傾げる。
「私の名前だよ。ややこしくて呼びにくいので、みんなウラトと呼ぶ。」
「…ウラト。」
そういえば旅の連れ、大男のハイランダーさんも、長ったらしい本名をしていたっけか。ウィンダーリアの人間はみな、ややこしい名前を持っているのだろうか。君の名前は、と穏やかな声が尋ねるのを、やはりどこか苦々しく聞き流そうとして、失敗する。まっすぐな目がもう一度、君の名前は、と穏やかに尋ねた。
「……ミツルだ。」
ミツル。ヴィジョンの人間には、あまり耳慣れない響きだろう。何度か繰り返すその響きが、未来で会った大人の亘そのままの気がして、堪らない。よろしく、と続けられた言葉に曖昧に頷き返す。一刻も早くここから逃げ出したいのに、足が惜しむようにその場に吸い付いて離れない。
「ミツルは魔道士か?この国へは旅行で?」
当たり障りのない話題を口に乗せながら、ふとウラトが路地の向こうへ視線を上げた。
遠いところを見るようにミツルの背中のずっと先に目をやる様子に、静かにミツルも背後の気配を探る。初めて見たときのように、再び青く研ぎ澄まされた男の様子。背中にはヒタリとはりつく誰かの目。すまない、と音もなくウラトの口が動いた。
「…"正解"に見つかったらしい。」
小さくちいさく落とされた言葉に、振り向くことをせず"間違い"だったミツルは静かに頷く。
「ひとりなのかい?せっかく会ったのもなにかの縁だろう。よければ街を案内しようか。」
人懐っこい笑顔で、ことさらに声を大きくしてウラトが首を傾げる。つきあわせてすまない、とミツルと同じ方向を振り返りながら、ウラトが本当にすまなそうに横顔を曇らせるのを、どこか現実味のない出来事のようにミツルは見ていた。夜色のマントが翻る。「こっちだ、」 といざなう声の調子は、現世の亘とは違って聞こえる。馬鹿馬鹿しい感傷と一蹴するには、彼の抱えた苦悩は小さなその手に大きすぎた。ウラトに並んで狭い路地裏をさらに曲がる。
さて、いったい彼はどんな厄介ごとに巻き込まれているというのか。剣呑な視線はひたひたとついて来ている。不気味な視線はただじっとこちらを―――ウラトを見つめている。ただそれだけだからこそ空恐ろしい。それが今や、自分にも向いていることにミツルは小さくため息を吐く。何食わぬ顔で、「人違いですまなかった。」
で別れられそうにない。なによりこのウラトが、亘とよく似ているのなら、きっと自分をここで放り出しはしないだろう。なにより短い前髪の下から覗く眼差しの健やかな光は、とてもとても、彼の知る者とよく似ているのだ。
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