不気味な視線はただついてくるだけだったからこそ恐ろしい。
幾つも角を曲がり、細い路地を抜け―――それでもついてくるそれに最初にしびれを切らせたのはミツルの方で、ひとつ前の街でも、同じように正体不明の追っ手から逃れるために唱えたものと同じ呪文を口にした。幻の紡いだ壁の向こうで、視線の主が通り過ぎるのを待つ―――。しかし恐ろしいことに、いつまで経っても誰も通らない。
しかしそれでも、"視 線 が 通 り 過 ぎ て" 言ったのを感じる。
ミツルですら思わずゾッとした。姿は見えぬがなにか―――なにか冷たい影が、眼差しだけが通り過ぎた。一度幻の紡いだ壁を視線は凝視して―――それから通り過ぎた。ローブの下で、背中がじっとりと汗を掻いている。息を潜めてミツルの後ろで剣を構えていたウラトも同様のようだった。
「―――助けられたな。」
やっとウラトが声を発したのは不気味な視線が通り過ぎたずいぶん後で、声音に緊張と疲労とが滲んでいる。
「なんだよ、あれ。」
喉がカラカラに乾くのを感じながら、ミツルは思わず口にしていた。あんな禍々しい"目"、見たことがない。相当高位の、邪悪な魔術だ。そんなものになぜ、あの亘の反転した姿だろうウラトが追われているのか。
「巻き込んだ…すまない。」
答えにならない言葉を口にして、ウラトが小さく頭を下げる。
「とりあえず大通りへ出よう―――ミツルは連れ合いはいるか?大丈夫とは思うが一人にならない方がいい。それからこの街へ来た目的は知らないが、早く離れろ。」
真剣なまなざしで、であったばかりの子供を案じて言っているのがわかる。あれだけ入り組んだ道を出鱈目とも見えるような道順で歩いたのに、ウラトの足は迷う様子もなくスイスイと歩く。時折ミツルの方を気にしながら、四方に警戒しつつ、足は騒がしく明るい方へ向かう。
これはあいつではない。けれどあいつを裏返した、あいつの対になる存在だ―――。考えると、ムクムクと子ども扱いされることに不満がわいてくる。なんだ、こんなにも似た顔して、一丁前に立派な大人、立派な騎士様だ。お前は俺と同じ子供だろうと、ともすれば考えそうになる自分にミツルは愕然とする。おなじなんかじゃない。
よく似た不幸を背負って、それでもあいつは、亘は勝った。正しい子供だ、優しい子供、そうして勝って、ただしいままに大人になった―――。
「ミツル?」
いよいよあっという間に、大通りの光景が近づいてきた。暗い路地の向こう、明るい雑踏が見える。それを目前に、黙ったまま立ち止まったミツルを、気遣わしげなウラトの視線が覗きこんでくる。それに首を振って、ミツルは顔を上げた。これはあいつで、けれどあいつではない。
「あれはなんだ?」
強い光を宿した目を上げたミツルに、ウラトがはっと息を呑む。ミツルの茶色の底にマゼンタの宝石を敷いたような目は、暗いところでは緋色にも見えた。
「あんな―――あんな、…あんなの、めったなことじゃない。こんな街中に、あんなのを放ってまで追うなんて、狂気の沙汰だ。あんた、いったい何に追われてるんだ?俺がいなかったら、どうやって切り抜けるつもりだった?」
矢継ぎ早に発される問いに、ウラトは歩みを止める。見下ろした子供の眼差しは鋭く、賢げで、そしてどうしてだろうか、ひどく真剣だ。知り合いに似ていたと言った時の顔が思い出された。この齢の子供が浮かべるには、あまりに大人びた表情だった。言えば巻き込むだろう。直感にも似た確信を彼は抱く。
「…もう十分巻き込まれてる。」
思考の先を呼んだようにミツルが発した言葉にウラトは目を見開く。
「あの"目"は俺の魔法を見たぞ。」
それがどういう意味なのか、魔法を専門にしないウラトには正確にわかりかねた。
「それならなおのこと、早くこの街を出るんだ。」
「あんたはどうなるんだ。」
ヒタリと刃をあてがうような、それでなお真摯な眼差しを突き立てられてウラトは一瞬言葉に詰まる。
「関係ない、だろう?」
こんなにやわらかくその言葉を言う人間を知らなくて、ミツルもまた言葉に詰まる。そうだ、関係ない。かつてそう言って何もかもを遠ざけようとした。そうだ、関係ない。それはもちろんウラトだけの話で、ミツルには十分関係がある。三谷亘の幻界の姿だ、それ以上の理由などない気がする。しかしそれを、なんと言えばいい?
助けたいとか、力になりたいとか、そんなおきれいな理由じゃない。気になる。放っておけない。頼りないとかそういう意味でもない。気になる。三谷亘だから。ウラトからすればいい迷惑だろう。知りもしないもうひとつの世界の自分のせいで、好奇心と言うには重たい興味を向けられるとは思っても見まい。それでも気になる。…トモダチだ。
その単語にはいつからかずいぶん慣れない。
さあ、とウラトが大通りを指差す。
「ここまでこれば流石にだいじょうぶだろう。」
今まで街中でしかけられたことはないから、とウラトがわらう。それでもあんたは、最初俺を追っ手だと間違えた時大通りから離れたじゃないか。俺がだいじょうぶでも、あんたがだいじょうぶじゃないだろうと、言ったところでどうなるだろう。似ている。似てるんだよあんた。そのものなんだ。鏡の世界の君、ああけれど、それをどういって説明する?そして説明したところで、それがどうした。
なにか言わなくては。
口を開きかけたミツルを遮って、風が動いた。
「チェストーーーー!!!!!」
ゴッとすごい音がして、目の前のウラトが吹っ飛んでいた。
そうして翻る、黄昏の色したマント。
「……は?」
「ミツル無事かい!?」
「ミツルくんだいじょうぶですか〜?」
ウラトをふっ飛ばし、鼻息も荒く仁王立ちのオクタムと、ひょっこり大通りから顔を出したのはシンだ。
「は?」
「急にいなくなるんでびっくりしましたよ!誘拐されたんじゃないかって。」
「…は?」
それでだいたいの状況を察したながらも、は?と言ってしまうのを許してほしい。もう一度、心の底から、は、の一文字を発したミツルに、オクタムとシンがそれぞれ声を上げる。
「は?」
「ハァ?」
「えっ、」
ウラトはなんとか起き上がって、察したのか苦笑している。
「…いい連れだな、ミツル。」
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