冥王星の君から手紙が届いた。 なんということはない、それくらい遠いところに行ってしまった人間から手紙が届いた、という比喩表現だ。冥王星と地球との距離は、約五十四億キロメートル。光の速さでならたったの五時間だが、車でミルキーウェイをぶっとばしても六千と百と六十四年かかる。会いに行く前に千年の恋も余裕で六回冷める距離だ。彼は一図な性質ではないし、猫のように飽きっぽい男であるから、六回などと言わずともおそらく地球を出た瞬間くらいに余裕で冷めて、途中の金星に美人でも見つけてすっかり冥王星の人なんて忘れてしまうだろう。 高級なマンションの最上階。彼は真っ白でふかふかのシーツの上に朝起きて、着替え、顔を洗い、それからトーストを焼き、コーヒーを淹れて、そのカップを片手に新聞受けを開け、白い手紙を見つけておやと首を傾げた。手紙を送ってくるような知り合いに、心当たりがなくなったばかりだったからだ。しかしどうにも、その封筒も、見覚えがあるような気がした。もう手紙を出してくることが、ぜったいにない人間だ。 けれどもはらりと裏を返すと、やはりというか、彼女の名前があって、彼は目を丸くした。涼やかな面からはその動揺はなかなか読み取れるものではないが、彼をよく知る者ならそれを見て口をあんぐり開けたに違いない。それくらいには、彼は驚いていた。 宛名にはもちろん、クロロ・ルシルフルと彼の名前があった。 こいつ、死んでもファーストネームとファミリーネムの間の=を・と間違える癖は直らなかったのだなと、その救われない脳内構造を非常に残念に思う。 そのまま食卓に戻り、椅子に腰かけて、コーヒーをひとくち。 同じ年頃の人間の、何倍もコアでディープな日常体験を恙なく送る彼であるが、死人から手紙が届いたのは初めてだった。それも昨日殺した恋人から届くなんてのは初めてだ。消印はない。しかし確かに、昨晩まではなかった。 これが本当の呪いの手紙。 ふむ、と一寸考え込んでから、テーブルのうえにマグを置いて、彼は極自然に手紙の封を開いた。 書き出しはシンプル、至って普通だ。 ―――拝啓、クロロ様 現代の利器に囲まれて生まれたくせに、メールより手紙、手紙より電話、電話よりも直接目を見て、そういうコミュニケーションの方法を好む。そういう女だった。食事にしろセックスにしろ、情緒と言うものを大事にする。いかにも“余裕”のある家庭で育った考え方をする女だった。ただ腹を満たす、性欲を満たす、そういった単純な行動をつまらないと言う、行動と目的を合致させることを好まない女。そのいかにも賢げで高級嗜好なその考え方は、嫌いではない。生きるために食べたことがない人間だ。人生の楽しみのひとつとして、食べる人間だった。女はだいたいいつも優雅だったが、時々スラム育ちの彼でさえ驚くほど口が悪い上に喧嘩となると手も足も出す。噛む。そういった二面性も、嫌いではなかった。 なぜ殺したのか、などというのはばかげている。殺しの後に残るのは、彼女が殺され、そして死んだという事実のみである。さらに言えば、彼には正直、その事実すら、どうでもいい。手紙がなければ、ひょっとしたらその事実すら忘れていたかもしれなかった。そんな彼を人は極悪非道の血も涙もない男だと言うに違いない。実際その通りであるし、愛していたかと問われれば、ふむ、と一拍考えたのち答えはイエスで、ならば何故殺したかと訊かれると、彼はどうしてそんなことを訪ねるのかと辟易して、その質問者をあっさり殺してしまうだろう。愛しているから殺せない、なんてことはないし、愛していたって殺せるし殺す時は殺すだろうし、愛しているからと言って殺され殺さないとは限らないし、愛しているから殺すなんて危ないプレイにやりたい盛りの思春期も通り過ぎた彼はもはや興味はないし、ああもう、面倒くさい。どうしてその二つを、イコールで結ぼうとするのだ。 一枚目は宛名だけで終わっている。 白い便箋が勿体ない。 タイマーがトーストが焼けたことを知らせるので、いったん席を立ち、更にそれを乗せて帰ってきた。一口くちに含むとさくりと粉が落ちた。両面良く焼きのトーストとはそういうものだ。気にしない。 口にトーストを加えたまま、二枚目へと手紙を捲る。 ―――ばーーーーーーーーーーーか。 とだけ書いてあった。 彼は目を丸くして、それからむぐりと口のなかのトーストを嚥下した。危うく吹きだすかと思った。 トーストを皿の上に置き、コーヒーを飲んで、それから椅子の背もたれにゆったりともたれかかる。 「ばーーーーーーか、…ときたか。」 子供のような口調と顔いっぱいのあまり品がいいとは言えない笑顔が思い出された。その癖服の趣味も着こなしも立ち振る舞いも、とても品が良いものだ。その口で馬鹿ときたもんだ。 困ってしまうな。 ちっとも困ってなんぞいないくせに、彼はふむ、と目を閉じる。 こんな手紙がかけるなら、冥王星はきっといいところだろうと、そう思った。 |
(20120901) |