「。」
呼ばれた娘が振り返った。その顔に微笑が、花のように広がる。
「イルミ、」
娘が自身を呼んだ人間をそう呼んだ。その細く白い両腕が、迎えるように自然に差し伸ばされる。呼ばれた男は、その普段であるならば喩え自らの腕が吹き飛ばされても、変わることがないであろうその表情を、ほんのわずか緩めたように思われた。
「イルミ、イルミ」
幼子のする動作のようだった。娘が腕を伸ばす。その白い手のひらから、赤がほたりと、庭の緑に落ちた。それは一瞬、花弁のような錯覚を見せるが、花ではない。それは液体であり、それが赤いのは、その液体のうちに含まれる赤血球と呼ばれる細胞の所為であった。男はその腕と微笑の示す願望の通りに、自らも腕を伸ばし娘を絡めとった。細い背中に腕を回す。同じようにその血濡れの手のひらが、彼の背に回された。小さく笑う声が、男の胸の辺りで聞こえる。彼は服が汚れることなんて、ひとつも気にしなかった。
くすくすくす、と、ひそやかな笑い声。
男はゆっくりと、かすかにまつげを震わせた。この男が瞬きをするなど、信じられぬ、見たこともなく想像もしたくもない。そう言う連中は五万といた。そしてそういった類の人間のほうが事実多かった。こうして彼の表情筋がわずかでも使われることはいったいどれだけ稀なことであるのだろう。ピクリとも動かぬその無表情はやはり何か感情も映しているようには見えず、そもそも感情すら存在するか怪しい。ただ娘を扱う手つきだけ、ひどく不釣合いに優しかった。
「、仕事帰り?」
男の長い髪が、さらさらと流れて落ちる。夜の川のような、黒々とした漆黒の中の漆黒の髪だった。
「そう、仕事帰り。」
娘の髪が、さらさらとこぼれて落ちた。漆黒の海のような、混沌の中の混沌のような髪だった。
男の手のひらが、そおっと娘の髪を透く。星屑がこぼれるようだと、真昼の光の下で彼は無感動にそう思った。
「怪我はない?。」
それは社交辞令にも似ている。
「ないよ。当たり前でしょう。」
確かに当たり前だった。彼女に怪我を負わせる人物は、少ないだろう。彼が怪我をする回数が少ないのと同じに。だからただ、なんとなく訊ねただけだったのだ。他意などない。たとえば心配だとか杞憂だとか、そんなもの入り込む余地もない。
娘は微笑んでばかりいる。男はやはり表情という言葉をしらないように、ただただ顔を静止させていた。
男は微笑まない。娘は他の表情を知らないように、ただただ口端をおっとりと持ち上げていた。
二人は対だった。
双であった。
とてもよく似ている。男か女か、それしか差はない。
彼は笑わないし、彼女は笑うばかりだ。同じことだ。二人の表情は、めった変わらない。いいや、変わったところなど、見たことがあるものがいるのだろうか。それすら誰も、知らないだろう。ふたりはなにも、変化しない。ふたりは常であり、不変のものである。
男が娘の肩口に顔を埋めた。その間も彼は目を瞑りもしなかったし、口端ひとつ持ち上げやしなかった。娘は笑っている。ずっと笑っている。その手は真っ赤なままだ。なんて素敵な人殺し。男の背中に、彼女の手のひらの血が滲んだ。ふたりはずっとそうしている。庭に光は球になって零れ落ちて、さらさらと息を潜め、そして笑っている。
ふいに日が翳った。にやあと目を細めて娘が黒猫のようにわらう。男の開きっぱなしの瞳孔は、そうだね、少し猫の形にも似ている。
「イルミ、」
彼女の手が彼の白い頬をなぞった。すぅっと赤い、跡がつく。
「赤、きれいね。」
「そうだね。」
彼は頷く。彼女がそう言うのなら。
いつだって是だろう。
もう一度その同じく白い肩に首筋に、顔を埋めて、それからうっとおしそうに、彼は一度顔を上げた。長い髪がぬらりと目の前を横切った。一度すっと彼が腕を振る。大降りの牡丹がひとつ、首を落とす。その幹にギラリと、一本鋭い針が光った。
「どうしたの?」
彼女が少し顔を上げた。
「べつに。」
彼はそう返す。少し気に入らなかった。あの牡丹は大きすぎる。目障りだ。どうしてもこの位置で肩に顔をやるときに目に入るのだ。
「なんでもないよ。」
そう、そう言って笑う声に耳を傾けながら今度こそ彼は額をその肩に摺り寄せる。
日は翳ったままだ。そのまま光は射さなかった。
曇天の下白い光の乱反射。
すべてが是だろう。
きっと。
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