真夜中。
。」
 呼ばれた娘が振り返った。その顔に微笑が、暁の僥倖のように緩やかに広がる。あかるいな、と呼んだ人間はそう思った。思っただけで、他にはなにも思わなかった。真夜中である。
「イルミ、」
 娘が自身を呼んだ人間をそう呼び返した。その細く白い両腕が、迎えるように自然に差し伸ばされる。暗闇の中その白い腕は、ほのかに発光してすら見えた。呼ばれた男は、その普段であるならば喩え自らの腕が吹き飛ばされても、変わることがないその表情を、ほんのわずか和らげたようだった。あるいは暗闇の加減が、そう見せたのか知らないが。
「イルミ、イルミ」
、仕事に出かける時間だよ。」
 幼子に対するような動作で、男はさしのばされた腕を取る。
「もう?」
「もう。」
 そう、と首を娘がかたむけ、その拍子にさらりと漆黒の夜空が肩を滑って落ちた。深夜の庭は静まり返って、誰もいない。星の瞬きだけが、チラチラと静かに笑いさざめいている。殺人鬼も人間であれば通常夜眠るので、屋敷の中もしんと静か。時計の音すらここでは息を顰めているようだ。眠らない番犬だけが、闇の中蠢いている。
「着替えてきなよ。」
「このままじゃいけない?」
「また汚すよ。」
 それはそうね、と娘が自らの服に目を落とすのにつられて、男もそれに目をやる。彼女には些か大きすぎる真っ白のシャツと、細身の黒いズボン。しかしややあって、「…よごれたら買えばいいか。」とどちらともなく呟いて、二人はよく似た顔を見合わせて少しニヤリとした。二人一緒の仕事は久しぶりで、少しばかり、彼らほどこの言葉が不釣り合いな人間はいないだろうが、浮かれている。
 男と女という性別の違いしかないその互いの顔。どちらも美しく、ほんとうにお互いをくるりとひっくり返せばこの顔になるに違いない。性別を反転させたそのままに成長した双子の、少し奇妙なコミュニケーションであるが、この一家自体奇妙であるので、大して誰も気にはしない。
 彼らはそもそも、服を汚すことなんて気にもしない。人を殺すのを気にもしないのと同じことだ。これはビジネスだ。金銭を受け取り請け負う至極まっとうな社会のシステムに則って行われるサービスの提供。
 くすくすくす、と、ひそやかな笑い声。
 白い腕が男の首に回され、猫のように娘がその肩に鼻を擦りよせる。サラサラとした髪が男の頬に当たった。首を傾けて、それを当てたのか、偶然当たったのかは、男しか知らないこと。細い体を抱き返しながら、男が少し呆れたようにする。
「遅れる。」
「ではいこう。」
 すんなり腕と顔が離れて、少し名残惜しい。ちょっと残念そうに、自らの腕を見下ろした男の長い髪が、さらさらと流れて落ちる。夜の川のような、黒々とした漆黒の中の漆黒の髪だった。射干玉の闇。
「帰ったらあそんでね。」
 娘がわらう。彼女は微笑んでばかりである。それか表情を知らないのだ。彼は笑わない。彼の表情が動くことはほとんどめったない。それしか表情を知らないのだ。娘の髪が、さらさらとこぼれて落ちた。漆黒の海のような、混沌の中の混沌のような髪だった。鴉の濡羽色だ、角度で輝きの色が変わる。
 少し前を歩く娘のその髪を、男の手のひらがそおっと撫でる。夜闇に熔けだすようだなと、無感動に彼はそう思った。。
「準備はいい?。」
 それは社交辞令にも似ている。
「いつでも。」
 いつでも。確かにその通りだった。彼らはいつでも、準備万端に整っている。自らの肉体を武器に変えることすら日常的な動作である彼らに、その行動は呼吸をするのと同じくらいに当たり前。なぜならそう生まれつき、そう育てられたからだ。彼とてもちろんそんなことわかりきっている。訊いてみただけ。他意などない。たとえば心配だとか杞憂だとか、そんなもの入り込む余地もない。いうなればそれは、彼ら独特の、言葉遊びであったのだ。
 娘は微笑んでばかりいる。男はやはり表情という言葉をしらないように、ただただ顔を静止させていた。男は微笑まない。娘は他の表情を知らないように、ただただ口端をおっとりと持ち上げている。おそらくその首が落ちても、二人の顔はかわらない。ふたりはなにも、変化しない。ふたりは常であり、不変のものである。
 ふいに月が雲に隠れた。夜空。ふたりの目玉が、ピカピカと獣のように光ったた。にやあと目を細めて娘が黒猫のようにわらう。男の開きっぱなしの瞳孔は、そうだね、やはり猫の形に似ている。
 忍び足で、大きなにひきの猫は歩いた。しなやかに夜を抜けて、残酷な狩人である素振りなど感じさせず、ただ静かに、忍びよる闇の、忍びよる死神のように。鎌も牙も持たず、研ぎ澄まされた眼差しだけ持って。
「イルミ、」
 夜を駆けながら娘がわらった。
「お月さま、きれいね。」
「…そうだね。」
 彼は頷く。彼女がそう言うのならそうなのだろうと思った。少しばかり明るすぎると思いながら、しかし仕事に支障が出るわけではない。ただ少しばかり、娘の顔が影になる。よく見えないな、彼はその月を砕いて銀の皿の上に載せたいような気がした。それをこの娘に食べさせれば、きっともっとうつくすくなるだろう。アイスクリームに味は似ているだろうか。どうでもいい、とりとめのない思考。
 影の中、娘の目が少しわらったようだ。
「帰りにアイス、買ってねえ。」
「…いくらでも。」
 彼はそう返す。ふたりの間にある、奇妙な精神の繋がり。
 月は再び、雲に隠れた。いい調子、月のない夜は気をつけろ。後ろめたいことがあるならなおのこと、月のある夜も気をつけろ。あってもなくても同じだ。きっと本当にあの月砕いてに食べさせても、世界はなにも変わらないに違いなかった。少なくとも二人の中では。なにもかわらない。雲は途切れることなく、そのまま光は射さなかった。
 真夜中の暗闇のなか。
 にひきはただ存在している。
 片方は笑いながら、片方は沈黙のうちに夜を昼を光を闇を走り、花を散らしながら悠々と泳いでいる。





20110522