目蓋のない猫


 イルミは瞬きをしない。
 正確には、彼があの真っ暗な目玉を瞬かせるところを見たことがなかった。彼はいつも、濡羽珠という言葉そのものの瞳を開いたままでいた。そうあることが当然だとでも言うように、開きっぱなしの目蓋。或いはひょっとかしたら、彼には目蓋という機関が存在しないのかもしれなかった。それほどまでに彼は生まれついたかの如く、その瞳を閉じない。眠る時ですらきっと、暗闇に目を凝らしているのだろうと思われた。
 例えば人はどんな時、目を瞑るだろう。眠る時、祈る時、悲しい時、寂しい時、嬉しい時?一秒にも満たない瞬きを、人間は無意識に、しかし眼球の生命としての機能を維持するために、確実に繰り返す。その必要最低限の瞬きすら、彼は行う素振りを見せない。見開かれたままの瞳は乾いて、どこまでも真っ暗に深く、どこか嘘寒いほどに薄っぺらい。
 悪い冗談みたいな、目をしている。
 そう言うと彼は、その意味がわからないようにただ首を傾げた。
 存在そのものが、質の悪いジョークのようなその一家の中にあって、彼は一際沈黙していた。その沈黙がひたすらに饒舌だった。彼は無味乾燥に見せておそらく兄弟の中で最もその情熱を家と仕事のために燃やしていた。おそらくその情熱的な部分は母親に似たのだろうと思う。ただ彼はそのことを決して表には出さなかったし、本人にその自覚すらまずなかったに違いない。彼は自らが、淡々と寡黙に、冷徹かつ冷静に、責務を全うしていると信じていた。それこそ質の悪いジョークでなければただの気のせいで、私に言わせてもらえば彼はちっとも冷静になどなりきれてはいなかった。彼の頭の中はいつでも、弟たちのことでいっぱいではちきれんばかりだったし、そのかわいい弟たちが絡めば、彼は欠片も冷静でなんぞいられなかった。彼は苛烈に冷酷で、同時に酷く情愛と執念と憎しみ深く、だった。なんとなくその様子は、卵を温め過ぎて産まれてくるはずの雛鳥を抱き殺し、その事実に気づかず腐った卵をひたすらに抱き続ける雌鶏に似ている。卵はいつまでもホカホカと温かく、そのぬくもりが生まれることのない雛を殻の中で黒く腐らせる。
 ねぇその卵が孵ることはないよ。
 だから私に頂戴と、声には出さずに薄ら笑いを浮かべながら、ただ黙ってそれを見ている私こそ、おそらく最も悪趣味に違いない。
 君って時々ボクより質が悪いよねぇ?と嬉しそうに悪趣味の権化に言われた時なぞ、本気で反省、もとい猛省、並びに絶望した。
 残念なことにこれだけは認めなければならないのだが、彼は最も純粋だった。己のものにかかる手間暇に、彼は決して労力を惜しむどころかその心血を全て注いだ。己の庇護下にあるものに対して、彼はひたむきに過保護であり、多大過ぎる関心と興味とを向け、また同時に教育熱心で探究心旺盛、時に呆れかえるほどに根気強く粘り強く忍耐強く我慢強かったし、時には辟易するほどせっかちで短気で怒りっぽく癇癪持ちの気がある上に心配性が過ぎ、同時に全て自らの意のままに進まなければ気の済まない暴君の面と、すべて情愛という行動理念によって裏打ちされた教育方針を持つ潔癖な母親のような面と、それからひたすらに無邪気で自らが残酷なことに自覚のない真性の科学者のような面とを持ち合わせた。とかく彼は純粋だった。それこそが罪悪だよねぇ◆と言うその意見に、我々は珍しくも見解の一致を示した。
 彼は純粋だ。純粋にまっさらな凶器だ。磨き抜かれ鍛え上げられ研ぎ澄まされたひとふりの刃だ。夜闇の冷たさ、静けさだ。男でありながら母親の無自覚の狂気、執着と怨念の塊だ。濁りきった狂喜のピエロと、腐りきった嗜好の痴女とは比ぶべくもない美しく馬鹿げた罪悪だ。彼は真性の奉公人だ。彼は家の、兄弟の僕、そして教師で羊飼いで番犬で楔だ。
 だから彼には目蓋がないのだ。人の形でありながら、彼はあまりに事象に近い。
 きっと女に口づけるときもじっと目を開いたままに違いない。

「…と、そういう見解に達したのでね、」
、それだけ言われても俺には何の話かさっぱりなんだけどね。」
 ことりと彼が首を傾げ、その動作は猫にも鳥にも似ていると思い、その目は死んだ魚の目だと思う。
「どうせ一から説明したって、興味はないでしょう?」
「…それはそうかも。」
 ほらね、と笑うと彼もクイと機械的に口端を持ち上げた。彼の微笑みは常に温度がなく、笑っていてもいなくても同じことだった。彼は事実、一度としてわらったことなどないのだから。
 彼が口づけをするときに目を閉じるのか否か。
 それは上等のワインも入って大いに盛り上がった我々の興味の的となった。私は絶対に閉じるはずがないと豪語した。逆に悪趣味な男は、ならボクはあえて閉じるに賭けるよ◆と猫のように細い目で笑った。よしじゃあ賭けよう!いいね、賭けよう◆
 それが昨晩のこと。
 男は賭けの商品に私が以前からほしくてほしくて仕方のなかったある少年との接触を提示した。孵ることなく腐ったら、どんなにか美味しいかしれなかった。男はその卵が無事に孵って、彼の言う"果実"になると信じてやまなかったがそんなことはどうでもいい。対して私は、賭けに今まで大切にしまっていた"雛"を提示した。キミ、こんな美味しそうな果実隠してたなんて、信じられない、ずるいなあ◆
 男が舌なめずりをした。

「とにかくそういうわけで、」
 彼はもはや尋ねることすら面倒くさがって放棄している。それで?と続きを促す声が、少しあきれを含んですらいる。
「イルミ、キスをしよう。」
 唐突だね、と彼は黒い目をぱちくりとさせた。
「…今度はなんの悪巧み?」
「知的好奇心というやつだ!あとはヒソカと賭けてる、だいじょうぶ、危害は加えない。」
「言われなくてもにやられるほどやわじゃないよ。」
 それはそうか、と肩を竦めて笑ってみせると、彼はふうとため息を吐いた。
「何が楽しいのやら。」
「まあそう言わずに。歯は磨いてきたよ。」
「…ああ、そう。」
 心なしげんなりした彼の膝に乗り上げる。
 こいつ、なんだかんだで私とヒソカのこと好きだよなあ、と頭の隅で考える。待てよ、では私とあの悪趣味なピエロは彼の中で同一だというのか。なんとけしからん。無表情なままの彼の頬を両手で包む。冷たい。それにしてもなんてきれいな、お人形のような顔をしているのかしらん。感情の感じられない色の白い様子など、振ればカラカラと音がしそうだ。もちろんそれはそんな風に見えるだけで、その頭の中には立派な殺人的思考回路が詰まっておられるので、ここで脳みそをシェイクなどしようものなら私の存在自身がシェイクされてしまう。小さく口を開けてそのきれいな形をした唇に近づける。彼はその漆黒の眼を閉じない。じっと私を凝視している。イルミの目の中に私がいる、その眼の中の私の目にイルミがいる。変な感じ。クツリと笑うと彼が不機嫌そうに眉をしかめた。
 噫、わかっているよ、賭けは私の勝ち、面倒事はさっさと終わらせよう。
 ちゅう、と口と口をつける。彼はじっと私の眉間のあたりを見つめている。まだ閉じない。ここで手を抜いては後でヒソカにいちゃもんをつけられてはたまらない。
「…はむ、」
 一度口を広げてそのくちびるを食む。わお、意外とやーらかいのね、イルミ。ふにふにとそのまま何度か角度を変えて口づけているとうざったそうに、「まだやるの?」という声が響いた。すべて言い終わる前に唇の隙間に舌をねじ込む。舌同士をつけるのは嫌いではない。あたたかくて、なんだか背筋がぞくぞくするような、不思議な感じがする。なにより他人の舌だの唾液だのというのはなんとなくじゅーしーで甘い感じがしやしないか。彼の目はまだじっと私を見ている。観察している。不意にその目は何も見てはいないのじゃないかしらと錯覚する。「ん、」しかし私の目が動くとそれを追ってその目玉が動いた。見えている、見られている。舌を勝手にくっつけて舐めたり押し付けたりしていると、イルミが怪訝に目を細めた。おっと閉じないでよ、賭けに負けちゃう。どちらも眼を見開いて、ガン見しながらキスしている様子は、喧嘩を売っているようだわ。もういい加減良いだろう。じゅ、と音を立てて口を離す。
「うーん、ごちそうさまでした?」
 口端を少し舌先で舐めるとイルミの味がするようだ。やだなこれってまるで変態みたいじゃないの。口をつける前と寸分変わらぬ無表情のまま、イルミははあと今度こそ疲れたようなあきれたようなため息を吐く。
「…で、賭けには勝ったの。」
「うふふ、私の勝ち。」


20111230