最近知らない人に声をかけられる。
それもただの知らない人、じゃあない。それぞれタイプは違えどとびきり美人、のお姉さんに。あら了じゃなぁい?そう言って肉感的な唇をニッと持ち上げて彼女たちは彼に話しかけてくるのだ。決まって彼より高い背で、そして彼の白い髪を指先でくるくる弄んだり、腕をとったり、それから胸の辺りを指先で悩ましくなぞったりしながら。
もちろん彼にとって、それは迷惑極まりないことだった。
クラスメイトの誰かあたりには、おい獏良!おまえあんな美人でセクスィーダイナマイツなお姉さまと知り合いたァどういうことだこの野郎!!と言われたりもしたが、彼にはさっぱり記憶にないのだ。知らない人に、そんないきなり親しく通り越して慣れ慣れしくされたって、困る、というか不気味だ。
ええっとすみませんどこかでお会いしましたか?僕、覚えがなくて。
その会話にもウンザリだった。大抵そういうと、彼女たちは、いやだ何の冗談?とおかしそうに口を歪めて笑う。しかしそれが、本気であると理解してくると、その美しい顔を般若の面のように引きつらせて、髪を掻き毟り歯軋りし、ついでに獏良のことも引っかき罵り高いヒールでガッツガツ、アスファルトを削りながら「馬鹿にしないでよ!」の捨て台詞を残して去ってゆくのだ。
後に残される自分の、なんて哀れなこと!
それもこれも、持病の記憶喪失のせいなのだ。きっときっと記憶が飛んでる間に、なにかやらかしてしまったのだ。なんとなくおぼろげにそんな気はしているけれど、確認する術もないし、お姉さま方の剣幕や態度を見るに、その内容を確認したら、きっとショックで死んじゃうだろうな、彼はそう思う。
「ああああああああ!!!!獏良!獏良了!!」
今日もそうして、下校途中に名指しで声をかけられた。穏やかな昼下がり、公園のまん前。平和な風景なのに、その声のかけられ方はあからさまに不穏だ。
しかし今回はいつもと少し違った。
それで獏良は、またか、と諦めた溜息を吐く代わりに、長い睫を瞬かせて、きょとんと目を見開いたのだった。
「きみ、誰?」
「きみ誰?だとオオオオオオ!!?あんたはどこぞのゲームの主人公かアアアア!!」
神様!そう叫ぶとその子は頭を抱えて蹲った。感情表現の豊かな娘だ。そう、子だ。その子は彼と同じくらいの少女だったのだ。背だって彼より頭ひとつ分ちっちゃくて、ほっぺたは杏色をしている。知らない学校の制服を着てて、彼女も下校途中のようだ。ワンピース型の可愛らしい制服に、どこか私立の学校だろうな、と獏良は予想を立てた。臙脂色がとてもよく似合っている。
さあ、これはいつもと違う展開だ。獏良は知らず知らず、少しワクワクしていた。つやつや光った目玉も、小さな手のひらも、その先っぽの淡い爪も、その子はかわいらしかった。肩辺りまで伸びた赤毛が、蹲ったその子は首を振る度ふわふわ踊った。しかし目尻にうっすら涙すら浮かべて、首を横に振り続ける彼女は、いささかかわいそうでもあった。それに少し、怖い。
「あ、…あの、どうしたの?」
おずおずとなんとか笑みを浮かべながら正面にしゃがみこむと、彼女はキッと顔を上げた。思ったより近い距離にドギマギしながら、彼が、「ええと、」と話を続けようとした時だ。その子は口を大きく開いて叫んだ。
「どうしたもこうしたもあるかテメーふっざけんなそこに直れそこに!!正座よ正座!!!」
小さな体でなんとも素晴らしい大声量だ。思わず、「は、はい!」と返事をして冷たいアスファルトの上に正座してしまった彼は後悔した。やはり、キャラクタのタイプは違えども、いつもと同じパターンに違いない。謂れのないことで散々罵られ引っかかれ泣かれて悪者にされるのだ。その小さなかわいらしい口から、どんな悪言雑語が飛び出てくるのかと身構えるのは、いささか億劫だった。
やっぱりこうなるのか、と重たい溜息を吐いて、ノロノロ顔を上げた獏良の目に入ったのは、ぷりぷり頬を膨らませる女の子、噫名前も知らないや、そう思うとますます憂鬱だ。
「いーい?恩を仇で返すったーあんたのことよ!しかも恩人の名前まで忘れたですって!?ありえない!あ り え な い!そんなんだからじょーちょふあんていないまどきの若者に育つんです早寝早起き三度の食事と健全な性生活と程よい運動をしないとー!一日中引きこもっておとなもこどももおねーさんもとか言ってちゃだめなのよ外の空気を吸って光る汗と青春の涙を流してみなさいよ先生バスケがしたいですぐらい言ってみなさいよ!」
ありえない、って二回言いやがった。そう考えながら、あーだこーだと説教を始めた彼女に、やっぱり獏良はあれあれあれ?と目を丸くする。だっていつものお姉さん達は、獏良が彼女たちのことを知らないことと彼女たちとの素敵な出会いから始まる云々を忘れてしまっている(ふりをしている、と彼女たちは主張する)ことに腹を立てるのだけれど、どうも彼女は違うらしい。延々と、健康的な生活についてまくし立てている。
「さあわかったら腕出しなさい!」
「はい?」
「腕よ!うーで!」
「う、うん…」
勢いに負けてつい素直に腕を出してしまった。両腕を出したら、バカ右だけで結構と左手を叩き落とされた。残された右腕にはきっちり包帯が巻かれている。これまた記憶がないうちに、いつの間にかこしらえていたものだ。包帯の下はいつも怖いので痛みがなくなるまでは見ないようにしている。
彼女はその包帯を手馴れた様子で解くと、何の変哲もない通学鞄から、消毒薬と軟膏とそれから真新しい包帯とテープをテキパキ取り出して、獏良の傷に容赦なく消毒薬をぶっかけ、「いたっ!しみるしみる!」「当たり前だコノヤロー!!」、そのナイフでひっかいたような傷口を抉るかのようにピンセットと綿で軟膏を擂りこみ、「いっっった…!!!痛いって傷開く開く!」「黙れ優男ー!!」「酷い!」そしてガーゼを丁寧に被せて「…そういえば今日のあんた大人しいわね」「…前回なにしたの僕…」そうして真新しい包帯をぐるぐる巻きながら、きょとんと睫を瞬かせた。パチクリという効果音がぴったりな具合に、ふたりが座り込んで目を丸くしているのは、傍からみたらお人形が向かい合って座っているみたいに見えただろう。ただ片方は怪訝で、片方はけっこう切実だった。
「覚えてないの?」
「…まったく。」
「ほんとになんにも?真夜中の交差点を爆走して50mで息切れ起こしてブッ倒れて畜生この貧弱な体がアアア!この体のせいだ俺様の苦労も何もかもすべてこの世界に受け入れられない融機人の体がうんぬん…!!とか言って○×学習塾の前で騒ぎ出したのも?」
「…いいえ。」
「そのまま小一時間自分の体の貧弱さとか弱さを呪いながら高笑いしたりなんか自分で自分を罵ってたのも…?」
「・・・・・・いいえ。」
「せんせも生徒もみんな君を怖がって外出られないから、一発どついて警察引きずって行ったろうと思って外に出てったら、ヒャハー!これでちったあ頑丈になんだろ感謝しろよ了!とか言いながら自分の腕切ってたのも?」
「…そんなことしてたの僕…!!」
「…ちなみにその光景のショックにどつくの忘れて手当てしてやった私に、えらっそうにあと5年したら相手してやってもいいだの、ひんにゅうだのと言いやがった!」
から地面に沈めて帰ったんだけどあの後どうなったのか後味悪くてさー。と彼女はのんきに彼に止めを刺した。ひどい。正面から斧でばっさり。だ。だれかザオリクとなえてやってくれ。ついでにホイミも頼むぜ?
地面につっぷしてショックから立ち直れない獏良に、その子がそおっとその背中を撫でた。止めを刺しておきながら。あ、あったかいな、そう思いながら、そんなことをしでかしたらしい自分に獏良はいささか絶望する。ごめんねと絞り出した声は今にも死んでしまいそうだった。元気があるなら絶望した!とか叫びながら公園を駆け抜けたいところだがそれすら今の彼には不可能だ。
「うん、まあ、さ。事情はわかんないけど君にも色々あるんだと思うよ…」
「う、うっ…!」
その同情と哀れみに満ちた視線が痛いよ!獏良は本気で泣いてしまいそうだと思った。こんなかわいい子に自分の奇行を見られ挙句迷惑かけたらしいとなると、もう男として自信を失くしそうだ。ただでさえ女の子みたいだのお人形さんみたいだの言われて彼はいささか元より自分に自信がない。薄い体も細い腕も、望んでこうなったわけではないのに。文句を言うな美少年というのは世の女性の切実な叫びである。
「時々記憶がなくなるんだ…その間にしょっちゅう怪我が増えてたり知り合いができてたり…。」
涙ながらの告白に、ますます彼女の顔が微妙になってゆく。
「た、大変だね…。」
その口端が引きつっている。彼は本気で自分のこの変な持病を呪いたくなった。ちっくしょーアブラカタブラ!アブラカタブラ!箒に跨る魔法少年の世界は遠い。
「じゃあ君、ほんとに私のこと覚えてないんだね?」
うん、と涙に濡れた瞳で彼が頷くと、彼女はちょっと頬を赤くして、確かに君はあの時の馬鹿じゃないね、と小さく言った。沈黙が降りて、獏良がほんの少し、鼻をすする音だけ響く。あたりはもうすっかり日暮れで、その子の赤い髪が夕日に溶けちゃいそうだとそう思った。獏良の髪も赤く染まって、きらきら光の粉を塗したみたい。
。」
その子が突然言った。
「私の名前、だよ。」
「・・・ちゃん?」
「そう。」
がにっこりと頷く。あ、やっぱりかわいいな、って場違いにそう思って、獏良は少し肩を竦めた。その子がもう一度、笑う。知ってるくせに、泣き顔のまんま獏良は笑った。
「君の名前は?」


20080511