恐らく自分自身の内側に、幾つか鏡があって。それに写る影が決して自身によく似ているわけではないということを、彼はぼんやりと知っていた。
 覚醒している間の彼の認識はその程度のものだったが、眠っている間の彼はそのことをはっきりと知っていた。

 少なくとも彼の中に鏡は三枚、おそらくそれ以上に存在する。
 一枚目を覗けば自らが写る。目覚めている時、朝起きて顔を洗いそして眺める鏡に写るものと同じ像がそこには存在する。
 石のように丸くなり、その心のいちばん奥底、そこに沈澱した柔らかい泥に沈み、そうしてその底を抜けると石の祭壇がある。そこは色のない世界で、鏡は至る所に無数に存在した。曲がりくねる道を歩けば、広い祭壇のあちこちに散らばる鏡をひとつひとつ覗いて歩くことができる。

 その一枚目の鏡は、道の真ん中に無造作に突き刺さっている。覗けば見慣れた自分が写る。白い肌、華奢な体つき、大きな目、色素のない髪。心細げな目をして、怯えたように自らを見る。
 ―――泣き虫なぼく。
 仕方がなくて、困ってしまって、彼が微笑みかけると鏡の中の彼が安心したように幼い微笑を浮かべる。
 ―――ああ見ていられないや。
 そう考えて彼はその大きな鏡を離れる。草も枯れ果てた灰色の道を行く途中には、鏡の他にいくつもの紙切れが落ちている。どれも分厚いゴワゴワとした紙で、父親が考古学者である彼は、それらをパピルスと言うのだと知っていた。パピルスには幾つも幾つも、なにかが書いてある。古代文字のような彼には判読不能に思われる部類のものから、幼児の殴り書きのようなこれもまた判読不能に思えるもの、そして幽霊のような字体の一番馴染みのある文字まで様々である。彼は道を歩くのに疲れると立ち止まって特に考えもなくその内一枚を拾い上げて広げて見る。するとどの言葉も、不思議と意味として捉えられる自分を知り、彼は首を傾げたりハッとしたり恐れたりしながらそれらの文字を読む。
 今またそうして彼の手がなんともなしに拾い上げた破れたパピルスを読む。
『王は死んだ。では神はどこに?』
 言葉はそこで途切れている。

 ふと顔を上げ、彼はもう一枚の鏡の前に立っていることを知る。それはゴツゴツと大きな石と石の中に倒れるように存在する。ほとんど地べたに水平になっているそれを、彼は深い井戸の底を確認するように覗き込むのである。
 蜘蛛の巣に似たヒビが入ったそこに写るのは、見慣れた、しかし見慣れぬ姿。しかし彼はこれも自分なのだということを知っている。顔形はよく自分に似ている。しかしその人相が圧倒的に異なっている。ニヤリと歪んだ口端。目は座り、ギラギラと今にもこの薄暗がりの中光り出しそうなくらいだ。余裕綽々に腕を組んで、自分が邪悪な笑みを浮かべるのを見下ろして彼はすうっと心が冷えるのを感じる。
 ―――どうしてそんな顔、するんだい。
 鏡の向こうから返事はなく、ただ辺りに散らかるパピルスには衝動的で暴力的な言葉ばかりが殴り書かれている。この鏡を覗く度、彼は自らが空虚な塊になるように思う。
 乱暴に主張し続けるパピルスから目を逸らすように、彼は暗い鏡の面から顔を背ける。
 壊せ!奪え!殺せ!憎い!憎い!潰せ!叩け!殴れ!憎め!憎め!憎め!!
 文字は叫び声を上げるようだ。彼は逃げるようにその場を離れ、細い道を辿る。
 するとだんだんと石の祭壇に近づく。

 そうして三枚目の鏡は、祭壇の脇の涙色をした大きな水たまりの傍らにそっと存在する。
 それは一際祭壇の影の中、冷たい光を孕んで立っている。
 彼はそっとその鏡を覗く。そこにいるのは見たことのない自分、他人のような姿をした男だ。似通っている点を上げるなら辛うじて髪の色だろうか。しかしそれ以外はまるで別人だ。浅黒い肌は焼けて逞しい。足は鹿のようにしなやかで、その腕は肉食の獣を連想させる。そして何より、その猛禽類じみた眼差しである。見慣れない民族衣装らしい服装をした男は、いつか絵本で見た盗賊のようだと彼は思う。覗き込んだ時、いつも男はいやそうな顔をしてわらう。お前が俺?冗談じゃねぇ。裸の胸に黄金のアクセサリが鈍く光る。そんな風に言っているのだろうか。自らの貧弱な腕や胸を見下ろして彼は少し落ち込む。しかしその足元に広がるパピルスに書かれてる絵文字の意味はどうだ。彼はもう一歩、鏡の面へ歩を進める。その冷たく凍えた表面を指先で触れて、男の顔を見やる。
『なぜ、』
 ―――暗いひとみ。
 自信と野心に満ちているような男の、その目に宿る胡乱ですらある影に、彼は意味もなく切なさを覚える。なんて悲しい目をしているのだろう。
 ―――そんな目で見るな!
 男が叫ぶ。しかし彼は苦しい。男の悲しみが、空虚な彼の中で鐘のように響くから。悲しい、苦しいんだね?問いかけに答えはない。男は顔を覆い、目を見開いたまま、荒い呼吸を繰り返すばかりだ。
 そっと悲しいを抱えたまま、彼は鏡を離れる。

 祭壇の周りには、叩き割られた破片のような凶暴なエッジの鏡が幾つも散らばっている。その中に写るのは大概二枚目の鏡に写る彼に似ている。そうしてそれらの中に、暗い影の巨大な塊の一片を見つけ、彼は身震いをする。赤い目玉をした、その強大な化け物は、鏡の破片と共にバラバラに散らばっている。それらの破片すべてに、その者の残酷な意思が宿っている。赤い目玉が今にも彼を喰らおうとぎらついているのがわかるから、彼はその黒い影が写る鏡には近寄らない。
 鏡の微細な欠片を踏んでしまわないように、彼は石段を登る。
 祭壇の上には玉座がある。玉座は空座で、誰もいない。そこに座るのは誰だろうか。神さまだろうか。彼はそれを知らない。

 ただそこには鏡が置かれている。その鏡は白く、明るい。彼はその鏡を手にとって持ち上げる時、敬虔な奉教人のような心持ちになる。それを胸に押し抱く時、こんなにも喜ばしく、また切なく、それ以上に苦しさを感じる時は他にないとも思う。白く輝く鏡を胸に抱いたまま、チラリとそれを傾けて彼はその面を見る。そこにいるのは彼ではない。彼ではない。
 よく知った少女である。
 まったく知らない少女である。
 二人の面影が重なった、まったく知らないようなよく知っているような、少女がいる。鏡の中、彼女は眠っている。そのふっくらとした瞼は閉じられたまま、開かれたことがない。白く輝きながら、しかし少女は石化している。
 ―――
 呼んでみるも少女は目覚めない。
 かつてその見も知らぬ少女の胸を、石の剣が無慈悲に貫いた場面を知っているように思う。
 よく知っているはずの少女が、明るく笑う場面を知っているのに、知らない方の彼女の微笑はいつも儚い。
 なぜ、
 なぜ、
 なぜ。
 遠くのすぐ近くで鐘が鳴る。こんなにも満たされてだのにこんなにも虚ろな空っぽ。鏡がさざめく、暗闇の中に。白い鏡を抱いたまま、彼は丸くなって、そのまま眠ることにする。
 天井からトロリと、泥が落ち彼をくるみこむ。石のように鈍くなってゆく思考の中で、唯一判読することのできない文字の意味を、おぼろげに理解したような錯覚を覚えながら彼は眠っていく。
 パピルスに書かれた真夜中の謎がやっと解けた。僕にもわかったよ。
 誰にともなく呟き、それきり彼は石になる。灰色の世界に色はなく、鏡ばかりが何事が叫んでは砕けを繰り返すばかり。

STONE
KINGDOM
(20080611)