01

 おうい、おうい。と、枯れ野の薄のその向こう、金と銀との風の海、そのまた遠くで誰かが呼んだ。

 ―――おぉうい。
 そんな声を聞いたように思って、雷蔵は立ち止まった。
 寂しい薄の野っぱらに、人影なぞはまるでなく。遠くに、錆びた紫色をした山の輪郭が見える。空は赤く、天上は藍染めの夜。烏が群れて、飛んで帰る。薄の水平線のその向こうに、くたびれたお堂と、六地蔵の前掛けの赤がばらばらと映る。どどう、とたっぷり風を孕んで薄の穂が鳴る。海鳴りに似た、風音。
 耳を澄ますがなにも聞こえず、ただなんとなく、あの、細く、遠い、おうい、という声だけが、耳の奥に残っているかのようであった。

 立ち止まったままの雷蔵を、数歩前をゆく三郎が振り返った。同じ顔は西日に照らされて赤く、後ろで同じ、ひとつにまとめた長い髪が、風に流れて顔の方へ靡いていた。風と夕日をふくんで茶色の髪の輪郭は赤く光る。逆におそらく、雷蔵の顔は西日の影であったろう。彼の髪は背中の方へ流れ。ただただ三郎の白い頬の輪郭を赤と金とか煌々と照らしている。

「おうい、雷蔵。どうしたんだ。」

 そのおうい、と言う響きになんとなく聞き覚えがあった。
 ああそうか、先ほどの声と似ているのだな、と彼は考え、件のそれもまた、前を歩く友人の悪ふざけであろうかと思い当たる。

 雷蔵の友人は、たいそう変装と、それと同じくらいに悪戯が得意であった。つまりは天才的に。
 彼らの通う学び舎において、三郎は天童として名を馳せていた。彼が千の顔を持つのだと称される由縁は、その鮮やかな変装術と誰も見たことのないとされるその素顔にある。普段三郎は、雷蔵の顔を借りており、決して誰にも、その雷蔵本人にすら"本当の"顔を晒したことはなかった。

 どどう、どどうと風が鳴る。自らの顔を完璧に模したとされる三郎を眺めながら、それでも雷蔵は、ああやはり我々は違う人間なのだなぁ、と場違いにしみじみ思っていた。ほんのちょっとした、表情が違う。基となる顔のパーツの模刻は完璧であれ、その部分部分が織りなす音が違った。
 例えば今こうして夕暮れの枯れ野原、自らを振り返って首を傾げた三郎の口元と片方眉をつりあげた少し気障なかんじなぞ、自分にはとても出せやしないなあと雷蔵は思うのだ。
 ざやざや薄が揺れる。金銀の穂のその中で、確かに二人は異なる人間であった。片方は頑なに、自らの顔を明かさず。片方は自らの、顔を穏やかに差し出して。

 おうい、とやはり、どこかで誰かが呼んだ。
 誰かが呼んでいる、と雷蔵は告げようとして、そうして失敗する。

 自分の顔が、すぐ目の前にあったからだ。
 瞬きする間に数歩の距離を詰めた三郎はやはり、天童と呼ばれる忍の玉子である。すぐ近くで瞬きをする長い睫の下、自らをじっと見やる不思議に深い黒の目に、雷蔵は、違うところもうひとつ見つけた、とやはり場違いにのんびり思っていた。その目玉の、不思議に暗い緑がかった色彩は、じっとじいっと目を凝らさねばわからないが、確かに自分にはないものだ。
 三郎はなにも言わず、雷蔵はもう一度、今尚遠くに聞こえるおうい、と言う呼び声のこと、話そうとした。
 するとまるで図ったように、三郎が口を開く。

「言っちゃいけない。」
 ポツリとつぶやかれたその言葉にはなにか魔力があった。

「聞こえないふりを、しなくちゃあいけない。」
 もう一度ゆっくりと、不思議な目玉が眼前で、閉じて、開いて。随分スロウな瞬きだ。つられて雷蔵も、一度瞬きをした。
 三郎はもう数歩先でこちらを振り返っている。夕日に照らされる、伏せられた瞼は自分のものであるのに美しいと雷蔵は思った。それはやはり、自分のものだからではなく、三郎のものであるからなのだということも。彼らの髪が、風に流れ。どう、と風がゆく。

「俺たちはなんにも聞いちゃいない。」

 おうい、と絶妙なタイミングで声が呼んだ。ふとそれは女の声のように思われた。
 しかし三郎の言葉には、有無をいわさぬ響きがあった。雷蔵は黙ってこっくりと頷き、それに満足げに――少し照れたようにも見える、ニヤリという微笑で三郎は笑い、そうしてまた雷蔵に背を向けると歩き出した。
 薄の群は彼らの胸の辺りまである背丈で、歩くにはそれを水を掻くように分けて進まねばならぬ。ゴオンと太く山のお寺で鐘がなる。山の頂にふと思いを馳せて、やはり雷蔵はおうい、と薄の向こうで呼ぶ声を、聞こえたように思うのだった。
 どどう、どどう、と風がゆく。
 真っ赤な野原の金と銀。前を歩く三郎の髪が、陽を受けて赤々と燃えるようだ。おうい、と声は、だんだんついてくるように思われる。同じ顔は振り返らず、雷蔵もまた振り返らなかった。どうにもぞっとしない。おうい、と声がまた呼ぶ。同じ着物を着た雷蔵の背中を眺めながら、彼はだんだんとこの声が呼んでいるのは三郎なのだと奇妙に確信し始めていた。
 ―――おぅうい。
 そう言えばこの声を、いつだったか、聞いたことがあるように思う。それはいつで、どこだったろう。最後の鐘が、鳴り止んだ。早く帰らねばならぬ。彼ら二人は実習を終えて、日が沈みきる前に、学園へ戻らねばならぬ。
 ああ日が沈む。早く帰らなければ、夕食にあぶれてしまう。
 薄野を抜ける。
 今まで彼らの正面からゆったりと大きく吹いていた風が、急に向きを変えた。背中からどどう、と吹き降りたそれは、二人の背を押し。あとに残った潮騒の、響きは泣いているようにも思われた。

「走るぞ、雷蔵。」
 ああ、と頷き駆け出しながら、雷蔵は唐突に、この自らの顔を好んで纏う少年との出会いを思い起こしていた。
 今日の昼日中のような、日であったなと思う。妙に天気が良くて、ものの輪郭がよく見えた。空は真っ青で、さながら浅葱の色で染めたようだった。ほんの少しだけ、雷蔵は振り返った。ただ薄野が寂しげに、ざわめくばかりである。
 あの日太陽は明るく、空気は妙に澄んでいた。

20090108