03
学園の門を潜った時には、もうほとんど夜であった。群青の空、山の端に一筋、真紅が残る。
「ふたりともお疲れさま。」
入門表にサインを、と笑う事務員と軽く挨拶を交わして、二人は食堂へ急いだ。後ろでわっと、事務員の彼、小松田が急な旋風に声を上げる。あー!入門表があああ!と一人で騒ぎながら飛ばされた書類を追いかけ、駈けてゆく。その騒々しさに少し笑った雷蔵を追い抜きざま、三郎がポツリと、彼の耳元に言葉を落としていった。
「振り返ったろう。」
「え?」
顔を上げた時にはもう、三郎は「噫、腹が減った!」と雷蔵の前を走っていた。長い廊下の影の中、食堂の明かりがひときわあたたかそうに漏れている。
一足先に食堂へ飛び込んだ三郎は、さっそく雷蔵のふりをして後輩を困らせているようだ。困惑気味の声が、廊下まで漏れてくる。どうやらからかわれているのは一年は組の良い子たちらしい。まったくいつもの調子である。さきほどの囁きが、白昼夢のようだ。
「おばちゃん、僕、Aランチね。」
「はいよ!…それで君は不破くんかい?それもと蜂屋くんの方?」
「えー!いやだなあおばちゃん!僕だよ!」
またやってる、少し微笑しながら雷蔵も後へ続いた。まったく最初はなんにも知らなかったくせに。忍び笑いがとまらない。
「おばちゃん、僕もAランチね。」
「はいよ・・・!って・・・不破くん?やっぱり蜂屋くん?」
「僕だよ、おばちゃん。」
肩をすくめて困ったように、けれどやっぱり楽しげに雷蔵は笑った。確かに彼のほうは嘘をついていない。ここがミソである。屈託なく笑った雷蔵の隣で、三郎がくすくすと笑う。まったくなんでも知ってるような顔をして。雷蔵もすこしくつりと笑った。
三郎はこの学園に来た頃、何も知らなかった。
もちろん二人そろって試験には合格。無事入学を果たした。
彼らの履歴書をよくよく見るまで、二人は双子だと信じてやまなかった教師たちは、彼らを同室にした。三郎の奇妙な行動はすぐに雷蔵の目をまん丸にさせ、同時に本人も同じような表情にさせた。
食堂ではまず彼は、雷蔵が注文する間じっと彼とメニューとを交互に見つめていた。何を頼むか迷っているのかとも思ったがどうも違う。雷蔵が先に座っている、と告げたときも、神妙な顔をして他の注文する生徒を見つめている。そうして5人に順番を譲った後で、彼はおずおずと「えーランチ。」とおばちゃんに告げた。
他にも例えば厠ではなく中庭で用を足そうとしたりだとかもあった。
夜眠るときも、彼はじっと部屋の隅で布団を敷く雷蔵を見ていたっけか。
「・・・?早く三郎も布団敷けば?」
「・・・ああ。」
雷蔵のを横目で確認しながら、三郎はあっさりと布団を敷いた。蝋燭を吹き消しながら、雷蔵は布団に納まった三郎に笑った。
「おやすみ、三郎。」
「…おやすみ。」
これが布団か。ポツリと呟かれた言葉はひとり言だろうか。反応していいものか、あたたかい布団の中で彼は少し迷った。
他にもそんな小さなことはいくつもあって、それでも三郎はそんな小さな穴をあっさりとほとんど誰にも気取られることなく埋めていった。
それに、それらの不可解はほとんど目立たなくて、彼の新入生ながら立派な変装ばかりが目を引いた。雷蔵と三郎が双子だと信じてやまなかった同級生などは、ある日突然自分と同じ顔の少年を見つけては腰を抜かしたものである。その度三郎は、屈託なく楽しげな声ざまで笑った。
まったく彼の変装の腕は衰えることを知らない。幼いあの日すでに完成されていたように見えたそれは、ますます磨きがかかっている。
しかし三郎自身は、わざと相手に見破らせることに楽しみを覚えているような節もあると、雷蔵は思っている。今もこうしておばちゃんと後輩の前で、僕だよ、と言い合っているが、しかしそれでもわずかな違いはよくよく見ればよく分かる。実際後輩のうちのひとりが、おおきな眼鏡の向こうから、こっちが三郎先輩だ、いいやこっちだと言い合うクラスメイトの後ろから、じっと二人を見比べているのがわかる。
きっとこの子は見破るだろう。
少しやわらかく微笑んだ雷蔵の向かいで、三郎がニヤと口端を持ち上げる。ほら、今だって。
「こっちが三郎先輩!」
「…当たり。」
すっと声を上げた少年に、二人は同時に同じような顔をして笑った。わっと後輩たちが、声をあげる。
二人はあの日から、本当の双子のようであった。
影は日向に、日向は影に。互いが互いを、補いあっているかのようだ。二人は大抵一緒であったし、大抵お互いのことを把握してもいた。
ただひとつ二人の間で共有されていなかったのは、蜂屋三郎、その人の素性に素顔、それだけだったかもしれない。そしてお互い、それを気にも止めていなかったのである。
四六時中一緒にいるわけではないが、しかしいつでもお互いの存在が背中にチラついていた。薄野原で出会った迷子と誰かさんは、多分あの時から、双星のような存在になったのだ。あるいはそのためだけの、出会いであったかも知れぬ。
蜂屋三郎が、どこから来たのか。思えば誰も、そのことを知らないのであった。
彼は一体、何者であろうか。
その素顔を見たものはおそらくひとりもおらず、天才と呼ばれるその術は本当に空から齎されたものなのだろうか。
誰も知らない。
誰も知らないのは彼自身が、頑なにそれを謎のままにしているからだ。飄々と、まるで気にしていないように見せて、おそらく三郎はいつも四方八方に緊張の糸を張り巡らせ、その謎が解かれないように努めている。自らの素顔を、その才の秘密を、彼は固持しようとしている。それは忍者を目指すにあたって、必要なことであったし当然のことでもあった。彼が誰かの顔を借りる度、その不思議が増した。秘密のにおいを彼は平然と、撒き散らして生きている。
―――秘密などないのかもしれない。
時折雷蔵はそう思う。蜂屋三郎という人間は、ほんとうに、ただの、天才なのだ。そしてちょっと風変わりな人間。素顔を晒したくない理由など、少し考えればいくらでも想像ならできる。
極度の恥かしがり屋だとか、とても見せられないような醜い顔をしているだとか、実は顔は見せられないが高貴な身の上だとか、忍者という職を選んだその性故だとか。あるいはまさかひょっとして、雷蔵とは生き別れの双子、借りていると見せかけた雷蔵の顔こそ三郎の素顔、だなぁんて。
まだ付き合いの浅い頃、雷蔵は自分の予想を三郎に並べてみたことがあった。三郎はそれらを黙ってニヤニヤ聞いているだけで、正解を決して言おうとはしなかった。
今思えば当たり前だ。その中に当たりがあったとして、素直に「当たりだ。」なんて言ってくれる人間なら、そもそも素顔を隠したりはしないだろう。
長い付き合いの中で、雷蔵が知ったのは、秘密があろうがなかろうが、彼の変装の術は一級品であり、忍の技についてもまた同じだということぐらいだ。あとは三郎の素直じゃない性格とか、悪戯好きなところ、それから昼寝も好きだ、夜目が利く、ひねくれてるけど優しいところとか、ときどき目がとても正直。負けず嫌いなところもあるし、薄情なときもあれば情に厚いときもある。基本的に結構面倒見がいい、成績優秀だけれど問題児で、愉快なことが好きだ。それなりに人望もある。ひねくれてるけど実はけっこう寂しん坊っていうのは絶対本人には言わないでおこう。
それくらい。
雷蔵と三郎は親友であった。それだけで十分。だからこそ三郎も、雷蔵のそばにいるのだろうってこと、彼は知らない。
ふたりは笑っている。同じ顔をして。同じように楽しい気持ちで。
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